2013/01/20
写真論2 カメラの進歩とリアリティ
リアリティとは内的真実のことではないかと昨日お話しました。
しかし人はそれぞれ体験する内容も違うし、仮に同じ体験をしても受け取り方が違います。
内的真実としてのリアリティも、各個人によって当然異なってくるわけです。
自分にとってはリアルでも、他人にとってはリアルではないということもあるし、圧倒的多数がリアルを感じる作品というのも存在します。その違いはどこにあるのでしょうか。それを説明するために「リアリティには階層がある」と仮定してみましょう。
第1章 リアリティには階層がある
リアリティには階層があると仮定します。
まず零次のリアリティ。これは個人の脳による記憶や変性といった編集がほとんど加わっていない情報のことです。
いわば未加工の生(ナマ)情報。リアリティを内的真実と定義している本ブログの立場からすると、これをリアリティに含めるのは妥当とは言えません。そこでこれを「零(ゼロ)次の」リアリティとします。
次に生情報が個人的体験として編集された内的真実、これを一次リアリティとしてみます。
今日夕方帰宅途中に見た夕焼けの色は大学浪人時代に見た京都の夕焼けとそっくりだった、みたいな。
ただしどれほど個人的といっても以下の二次や三次の地域的、時代的、人類的な修飾を受けないということはありえないので、厳密な意味で個人的というわけではなく、比較的広がりの限定された内的真実という意味合いで用います。
その次は地域的あるいは時代的に共有されている実感のプールとしての内的真実です。
大阪では一家に一台たこ焼き器がある的な(笑)。これを二次リアリティとします。
その次は人類が共通に持っているヒトとしての類的・種的なリアリティ。
ヒトという生物が持っている言語・血縁・財貨サービスによるコミュニティに底流する実感のプール。
ここには人間社会、冠婚葬祭、霊的なもの、快楽、苦痛、喜び、悲しみ、愛憎など、人類に共通する深くて広いテーマが全て含まれています。
これを三次リアリティとしましょう。
その次の四次リアリティは生物のプール。
食・睡眠・生殖・呼吸・生存・死など。
その次は存在のプール。これは生死を超えた、存在の根源に繋がる内的真実。これを五次リアリティとしましょう。これは難しいですね。本当にこんなプールがあるのかな。まぁ想像的なプールと言っておきましょう。
ただしこれら一次から五次のリアリティは明確に区別できるものではなく、お互いに深く関係しあっていると考えられます。なぜなら我々は種的、歴史的影響を抜きの単なる個人としては存在し得ないからです。しかしそう言ってしまっては全てが混沌のスープに溶けてしまうので科学の流儀に従って「分けます」。
以上まとめると
零次リアリティ:個人の脳による編集を受ける前の生情報。
一次リアリティ:個人の内的真実。
二次リアリティ:地域的あるいは時代的な内的真実。
三次リアリティ:人類的な内的真実。
四次リアリティ:生物的な内的真実。
五次リアリティ:存在的な内的真実。
そしてこの次数が下へ行くほど、そのリアリティはより広い普遍性を獲得します。
ある写真が普遍性を持つかどうかはどの次元まで通じているかという次数のパラメーターに還元できます。その写真の持つリアリティの階層の深さが、共感の深さと広さに関係しているというわけです。
さらにこういう仮説を設けるとカメラという装置が何をしているかがイメージしやすくなります。
カメラは零次リアリティに関わる装置なのです。
第2章 カメラの進歩は盗みの進歩
カメラの黎明期に喧伝された信憑に「写真を撮られると命が縮まる」というのがあります。
絵描きが絵を描く場合はモデルと向き合ってコミュニケーションが立ち上がる時間的余裕が有るのに対し、カメラは一瞬で全てを抜き取っていくという性質上、スリに掏られたような印象を被写体に与えてしまうわけです。
実際カメラには盗撮的側面があるわけで、今便宜上写真を撮るという行為を盗みに例えて考えることも許されるでしょう。
初期のカメラは暗いと撮れない、動くものは撮れない、近寄らないと細部はわからない、ヘタだと撮れないという様々な制約がありました。
しかしその後カメラは暗くても撮れる、動くものも撮れる、近寄らなくても細部が克明に撮れる、ヘタでも撮れるという方向に進歩してきたわけですね。
これを泥棒に例えると塀が高かったり鍵が頑丈だったり番犬がいたりしても、その家から家財一式まるごと盗むことが出来るようになったと。つまりカメラの進歩というのは、
自由度がアップした(どんな家からでも盗れる)
情報量が増えた(風呂敷が大きくなってがっぽり盗れる)
という二方向への拡充であったと考えることが出来るわけです。
するとカメラの進歩はリアリティとどのように関係するでしょうか。
それを次の最終章で考えてみましょう。
第三章 カメラの進歩とリアリティ
カメラの進歩が自由度のアップと情報量のアップにあるとすると
それは零次のリアリティの拡充に相当します。
われわれはそこから「ほかならぬ私にとって意味のある情報」を抜き出して編集することで一次以降のリアリティを獲得します。
再び話を泥棒に例えると、
泥棒が集めた盗品から何を捨て何を取り上げるかという作業をする時
盗品の量が多ければ多いほど泥棒の作業は煩雑を極め悩みは深くなります。
例を変えて引越しの場面を想像してみましょう。
本棚や押し入れから本や雑貨や思い出の品などがたくさん出てきて、それを見ているうちに面白くなり、どれを捨ててどれを次の家に持っていくか判断がつかなくなり部屋はどんどん散らかっていく。
妻にせかされてやむなく捨てることになっても未練が残ってしまうという状況に、それは似ています。
泥棒は途方に暮れる。
いっそすべてをそのままアップして、リアリティの獲得は見ている人に任せてしまおうかという甘い誘惑にも駆られます。
実際、零次のリアリティには零次のリアリティとしての魅力があって、例えば対象が何であれ過剰なほどの精細さで切り取られていると、それは視覚を超えて触覚に訴えるほどの魅力を持つことも稀ではありません。写真を零次のリアリティとして提示するというのは、カメラの性能がアップしたことで生まれてきたスタンスなのかもしれません。
しかし高機能カメラを用いて一次リアリティを獲得しようとすると
とたんに撮影者は零次から一次への繰り上げに難渋することになる。
ロモやピンホールなどのパフォーマンスの低いカメラが一部で強く支持されているのも
もう盗品は少なくていいんだという流れの中で生まれてきたのかもしれません。
低パフォーマンスのカメラの利点は単に盗品が少ないというだけではなく
実は撮影するという行為がすでに零次から一次リアリティへの繰り上げになっているという点です。
それは何を撮るか、どこにピントを合わせるかという手作業のことです。
撮りにくいカメラで、それでもどうしても撮っておきたいという強い思いはすでに一次リアリティですし、
どこにピントを合わせるかというのも、自分は何を強調したいのかという一次リアリティです。
低パフォーマンスカメラは、実は一次リアリティを装備したカメラと言えるかもしれません。
高機能カメラでもオートフォーカスでなくマニュアルフォーカスで撮ると一次リアリティが入りやすくなります。
それはどういうことかというと、特にマクロで実感することですが
オートフォーカスでは撮りたいと思ったものに瞬時にピントが合うわけですが、これがマニュアルだと、
ピントを合わせていく過程で様々なものへの合焦を通り過ぎながら目的の合焦点に到達します。
その途中に予定外の魅力的な合焦ポイントを見つけ出すことがあるわけです。
それは私が意識では知りえなかった、いわば無意識の呼び声のようなものをキャッチし得た瞬間です。
このように、無駄とも思えるそぞろ歩きのなかに、一次リアリティが入り込んでくる。
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場なのかもしれません。
じゃあ高機能カメラの立場はどうなる?ということになるわけですが、
多すぎる自由の中で、本来われわれは何をしたかったのかを再考する一助になればと思って
この長々しい文章を書いてみました。
文章のヒントを下さったwataponzさんに感謝します。
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遅ればせながら「カメラの未来」と併せて拝読しました。
返信削除まさかリアリティの話題がカメラの未来の話へと展開していくとは思いませんでしたが、興味深く熟読させていただきました。
他愛もないYouTubeの案内をスルーパスと受け取っていただき
そこからこんな鮮やかなシュートまで決めていただき、なんだか僕は図々しくもちょっと誇らしい気分です(笑)
wataponzさんありがとうございます。
返信削除自分の引き出しにないようなコメントを頂いてどんな返事を書こうかと頭を捻っているうちに
面白いアイデアがポッカリ浮かんでくることって多いですよね。ブログの醍醐味の一つだと思います。
今回wataponzさんに教えて頂いたYouTubeはテーマがほんとにドンピシャで
養老孟司さんと押井守さんの会話を聞いているうちにどんどんイメージが膨らんでまとめるのに苦労しましたが
芽を引っ張る下からずるずる大きなヤマイモが出てくるとは思っていなかったので痛快です。ありがとうございました^^。