2013/01/18

写真論1 リアリティについて

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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百鬼園先生の汽車旅行の随筆には旅行中ふと目に止まった情景やそれを見て湧き起こった感興が細密に描写されているので、先生は旅行中逐一メモを採っていたのだろうと、僕は思っていた。
今日ディーラーで車検の見積もりをしてもらいながらちくま文庫の内田百閒集成2「立腹帖」を読んでいたら巻末の保苅瑞穂氏の解説にこのようなことが書いてあった。

『あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文のようなものを書くとしても、行ってきた記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合したものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。』

リアリティというものをどう考えるかは人によってまちまちですが
いったん忘れて、そのことを自分で思い出そうとして出てきたものがリアリティだというのです。
一般的には目にしたこと全てをメモに書き取って文章にすればそれがリアリティだと考えますが、経験したことのうち、あるものは消えてしまって永遠に思い出せず、さらに思い出せたものさえ、経た時間の中で変性してしまっているものがリアリティだというのです。

それを言い換えればインプットされたものがいったん個人にとっての重要性をもとに記憶という篩で選択を受け、さらにそれが時間を経ても自分の中で存続し得る資格を得るために変性という加工を受けるわけで、そのような、選択と変性を経たものが果たしてリアリティと呼べるでしょうか。

しかしまた一方で私達があるお話や映像をリアルに感じるのはどんな場合かを思い返してみると自分にも似た経験があったり同じような実感を経験したことがある場合に「リアルだなぁ」と呟いたりするわけです。その文章を読むことでかつて自分が体験したことを、あたかも今もう一度目の前で体験しているかのように感じる時にひとはリアルを感じるのでしょう。つまりリアリティというのは生々しい実体験の記憶と、その記憶への共感によって生まれるのではないか。
先日「名付け再考」で取り上げたユングのエピソードをもう一度取り上げてみましょう。

『ユングが、一九二〇年頃だったかアメリカ・インディアンのところに行くと、みんな太陽を拝んでいるのです。
ユングは感心して見ていた。いろいろ訊きたかったもので、昼頃になって長老のところに行き、「あなた方は太陽を拝んでいるけれども、太陽は神なのか」と訊いた。
そしたら長老が笑って、「あんなのは神ではない」と言ったらしいのです。
ユングが「朝、あなた方は太陽を拝んでいたじゃないか。神様じゃないのに拝んでいたのか」と言うと、インディアンの人々はユングの質問の意味がわからなくなってくる。
話をしていてだんだんわかってきたことは、要するに朝拝んでいるときだけは太陽は神様なのです。
「太陽は神であるのか、神でないのか」という我々の考え方は、悪いところでもありいいところでもある。
我々は、どうしてもそういう考え方をしてしまうのですね。 
今の話で言えば、西洋の発想では「薔薇は神ですか、神ではありませんか」と訊いて、神だったら拝む、神でなかったら拝まないということになるというふうに、何でも二つに分けて考えようとするのです。
インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてがものすごく内的な感動を生みます。それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。
それを、どうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。ここが非常に大事なところです。
今でも日本人には名残が残っています。山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。
あれは、別に木や石が神様ではなく、大きい木や石に対面したときに感じるすべて、これが神なんです。
区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。こういうことがわかってきて、ユングが、このように言っています。
我々の人生にとって大事なことは、自分の体験である、と。』
河合隼雄「『「日本人」という病』P182-183.現代人の宗教性」〈ライブラリー潮出版社〉より。

上記の「神」を「リアリティ」に置き換えてみると非常によく分かる。
それは内的真実のことなのだ。

10 件のコメント:


  1. >いったん忘れて、そのことを自分で思い出そうとして出てきたものがリアリティだというのです。
    >それは内的真実のことなのだ。

    そうか 分るような気がします
    人はそれを(写真など)見て「リアル」というのですね

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  2. hishiayamaさんありがとうございます。
    おお、わかっていただけましたか!
    百閒の文章はなぐさみに読めるレイドバックな気配を漂わせているのに
    調子良く読んでいると、ん?と小首を傾げたくなる箇所があるんですね。
    で、そこをスコップで掘ってみると実は大きな鉱脈だったり、そんな作家です。

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  3. shinさん、なんと人が死んであの世へ持って行けるのは内的真実だけなのだそうです。内的真実や発見を伴わないこの世で必死で覚えたあらゆる知識や経験は全て忘れ去ってしまうのだそうです。あの世の事は良くわかりませんが例え死んだら全て終わるにしてもリアリティを感じない知識の蓄積や経験で人生を空しくしたくないとつくづく思いました。素晴らしい!

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  4. S.小林さんありがとうございます。
    リアリティを感じようが感じまいがありとあらゆる知識と経験を使って精一杯この世を生き抜いていく生き方に僕はリアリティを感じます。
    それはともかくあの世で着る衣装にリアリティを入れるポケットがあるのかどうかというのは興味深いテーマですね。
    ただこれは議論百出になる可能性があるので一応このブログではあの世の話題はご法度とさせて頂きます。ごめんね。

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  5. 美しいお写真とコメント、いつも楽しく拝見させていただいております。
    考えさせられるテーマに感謝いたします。

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  6. ありがとうございます。
    こんなルービックキューブをこねくり回しているようなブログですが
    楽しく読んでいただけたら幸いです。
    これからもよろしく^^。

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  7. おっといけないいけない。困らせてしまいましたね。こちらこそごめんなさい。Shinさんの写真やコメントを見ているとリアリティに関しておっしゃっていることの意味がよくわかります。つまり反面、私自身がいかに物事に対して無頓着で真剣みが足らないか、上の空なのか、リアルに生きていないかがよくわかるという事です。現実を精一杯というのが私にとって一番必要な事なのかもしれません。反省も精一杯しなくては。ありがとうございました。

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  8. 最近、偶然にもこのブログの内容と同じ話題について
    養老孟司と押井守が対談しているのYouTubeで見ました。
    とても面白かったですよ。
    http://www.youtube.com/watch?v=-4a2Qj3Ma1M

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  9. wataponzさんありがとうございます。
    YouTube、すごく面白かったです。
    二人の会話を聞いているうちにいろんなことを思いついたので
    「カメラの進歩とリアリティーについて」という文章を書いてみました。
    ヒントを下さってありがとー^^。

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