この歳になってよく思うのは若いころの自分というのは、
そして実はいまだに時としてそうなのだが常に両極端の間を揺れ動いていることで
傲慢かと思えば卑屈、高揚しているかと思えば絶望、憧れているかと思えば軽蔑という
あれかこれかの極端な気持ちでいることが多かったことだ。
その中間の、穏やかな謙虚な気持を維持し続けるということがどうして出来ないのだろう。
それを理解するためにある種の概念図を考えてみた。
例えば若いころの自我の受け皿というのはこのような形をしていて
帽子の上に自我というボールを置くとすぐに転がり落ちてしまう。そしてそこにあるのが
傲慢と卑屈
高揚と絶望
憧れと軽蔑
好きと嫌いといった両極端で
山のてっぺんにいる時間はわずか。
むかしフォークシンガーの三上寛が「怪傑自己嫌悪」という歌を歌っていたが
何をしていても怪傑「自己嫌悪」がやってきて穏やかな気持を蹴散らして去っていく。
その、両極端にいることに耐えられずに自我というボールを押し上げていっても
結局ボールはもとに戻るか山の向こう側に転がり落ちてしまうという
シジフォスの神話さながらの日々。
しかし年令を重ねていくと
でっぱりが低くなり、平坦になり、やがてへこみ始める。
いやひとによっては若い頃からそうなのかもしれないが
労せずして気持ちが落ち着く。
問題はこの受け皿の縦軸とは何なのかということだ。
わからん。
追記
えとですね、わからんのになぜこんな駄文をアップしたかというと
フリーのソフトで初めて3次元CG画像を作ってみたからです。
こんな簡単な作業にすごく苦労したよじいちゃんは。
縦軸が何かはわからないけど、麦わら帽子のつばの平面は「世間」ではないかと思われ。
返信削除chinさんありがとうございます。
返信削除平面が世間ということは世間のレベルより傲慢になったり卑屈になったりっていうことなんでしょうね。
ちょっと、神父の被る帽子にも似てますね。