2013/01/22
写真論3 カメラの未来
前回のお話の続きです。
最新のカメラに標準装備されている様々な仕様、例えば
高速シャッター、高ISO、撮像素子の大型化と高画素化、手振れ補正、
瞬速AF、HDR、防塵防滴、自動追尾、可動式液晶ライブモニターなどの技術は
以前なら撮れなかった被写体の撮影を可能にするための、いわば、
「生(ナマ)情報の拾い上げ能力の拡大のための進化」と言ってもよいでしょう。
前回私が、カメラはこれまで主に零(ゼロ)次リアリティを拡大する方向で進化してきたと述べたのはそういう意味です。
ここで藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で、鬼海弘雄氏が
「カメラは人と人を結ぶ関係性のためにある」と述べていたことを思い出してみましょう。
前項で取り上げた考察に従えば、鬼海弘雄氏にとってカメラというのは
一次(以降の)リアリティを共有するための道具ということになります。
もちろんメーカーの立場から言えば、そもそも一次リアリティの拡大は撮影者側のテーマであり、
企業は零次リアリティを拡大していくことで撮影者の一次リアリティ拡大に間接的に寄与しているのだと言えなくもありません。
ただ問題は、零次リアリティの拡大は必然的に一次リアリティの介入を妨害するという点です。
撮りにくいカメラで撮ろうとする思いも含めて、
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場だからです。
鬼海弘雄氏が前著のなかで、
「デジタルはたしかによく写る。だが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない。またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない。」あるいは「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる。」と述べておられるのも含味すべき言葉かと思います。
さて、では今後カメラはどの方向に向かうのでしょう。
おそらく零次リアリティを拡大していく流れは続くとしても
行き過ぎた零次リアリティの拡大は一次リアリティへ至る道をどんどん狭めていくと思われます。
「何でも撮れるけど何にも撮れない」あるいは「私は何を撮ったらいいんでしょう」というのはこのあたりの事情です。
車がどんどん高性能になって、もはや誰も車の夢を見なくなったように、
カメラの魅力もどんどん低下して、ついに人は写真を撮らなくなるのでしょうか。
プロは今までどおり仕事として高機能カメラを必要とするでしょう。
しかしアマチュアにカメラを使い続けてもらうために企業は何をすべきなのか。
それはやはりローテクの洗練ということになるわけですが
「無駄や不可能との交渉そのものが私達のリアリティなのだ!」ということを一般に喧伝しつつ
例えばアップルの製品でUIそのものが悦楽であるように
視覚に麗しく触感が官能的で、ひとつひとつの操作に深い味わいのあるカメラ。
操作に快感を導入することで〈結果的に〉ローテクであるようなカメラ。
ちょっと今の富士フィルムの路線に似ているでしょうか。
コシナ製レンズのヘリコイドのエロティックな触感なんかも
あれはAFでなくてMFであることがむしろ積極的な喜びになってるでしょ?
たぶんそういう方向。
大上段に振りかぶった割にはこじんまりした結論ですが^^。
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