2011/04/10

それは市場なのか畑なのか

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本を電子化すると情報を探して入手する手間が省けて、とても便利になるというのは何でも手に入るスーパーに似ている。
書物にはそういった市場(いちば)のような面があるけれども、また一方で書物には耕さなければ収穫できない畑のような面もある。

自分という畑からこれまでとは違う作物を収穫したくなったら、どう耕せば良いのかは他人から学ばねばならない。
書物を読むという行為は他人の畑に入って他人が耕した畑を自分でもおさらいしてそこを耕すようなものだ。

そしてその他人の畑を耕すときに、線を引いたり書き込みをしたりページの耳を折ったり、寝転んで胸の上で本を温めたり本を抱いて寝たり呆れて本を投げ出したり読み終えたページの分量を指で挟んでニヤッとしたり、以前の自分の書き込みに呆れたり、その書き込みを線で消して上から新しい書き込みをしたりといった書物との付き合いからしか新しいアイデアは生まれないんじゃないだろうか。

だから最近僕が万年筆やインクに耽溺していることの言い訳がここから始まるわけだが、本という畑を耕すための鍬(くわ)がペンで、インクは畑に撒く水のようなものだ。

本の匂いを嗅いだり触ったりするのは畑の土をハダシの足で踏んで土の冷たさや暖かさを直に足の裏で感じたり、土の匂いを嗅いだりすることにつながっていて、筆記具の手触りは鍬の柄の手触りで、インクの匂いは畑に撒いた水や肥料の匂いのようなもので、そういう脳の仕事の中でも特にプリミティブで生産的で肉体的な部分は物質感というものが不可欠な気がする。

だからこの世の中から本もペンもインクも紙も鉛筆も無くなってパソコンとキーボードだけになったら人間の知的生産性はかなり落ちると思う。
畑が無くなってスーパーだけになったら誰が野菜を作るのだろう。



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4 件のコメント:

  1. ご無沙汰しています、shinさん。
    私は思索的な文章は苦手なので、あくまで個人的な感想ですが
    おもにアナログデバイスで文章を耕していた時期と比較して
    現在のキーボード入力になってからの自分の文章の最も大きな変化は
    強いて言えば、音楽性がいささか豊かになった事です。
    論理性よりもつまり韻律というかリズムが勝った文章になった事です。
    グレン・グールドのピアノプレイのように
    テンペラメントが乗ってくると身体が揺れ動く私です。

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  2. hiroshipsさんありがとうございます。
    ああ、それはなんとなくわかる気がします。
    キーボードだと考える速度で入力できるのでリズム感が出ますね。
    文章を切ったり貼ったりも自由自在なので、こと出力に関する限りすごく快適です。
    問題は入力の方なんですが、まだ自分がよくわかっていないことをああでもないこうでもないと
    脳みそをほじくり返す場合は筆記が優っているかもしれません。
    まだ形にならないもの。
    でもキーボードでもタイピングに引っ張られて文章が出来る時もあるなぁ。
    うん、やっぱり単純に物質の匂いを嗅いだり触ったりするほうがいいのは他者を導入するときなのかな。

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  3. こんばんは。
    shinさんらしいお話で楽しく拝見しました。
    インクの匂いってどんなのだっけなと、遠い記憶をさぐっています。

    子どもの頃は家にブリタニカ百科事典があって、
    さしたる目的もなくページをめくるのがとても楽しかったです。
    思いがけない写真や記述に出会った時の楽しさは今でも覚えています。
    何か特定の事柄を探しているときでも、途中で興味を惹かれる項目があったりすると寄り道してみたり。
    直通エレベーターなどなかったので階段をテクテク昇るというイメージでした。
    そんな経験の中で、よりよい情報を選択する「勘」が少しでも養われたのかもしれないと思います。

    今では、読書したいけど何を読んでいいのか分からないときや時間のないときは
    「スーパーマーケット」で、ずらっと並んだお薦め本の中から選ぶのが楽だし手間も省けるときがあります。
    しかし、そういうことに慣れてしまうと自分で情報を取捨選択する「勘」が鈍ってしまいそうな気がします。

    普段はマニュアル化された体系の中で自分で何かを判断することはそんなに難しいことではないかもしれないですが
    「想定外」の未知の事象に出会ったとき、誰も「お薦め」してくれない事態に陥ったとき
    誰も経験したことのない道に踏み入らざるを得なくなったときに、
    進むべき方向感覚である「勘」が使いものにならない……、そんな事態を危惧しています。

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  4. cahier-bさんありがとうございます。
    実はずいぶん長い間まとまったキチンとした読書の意欲が枯渇していたんですが
    内田樹師匠の発想をなんとか自分なりに明らかにしたいという止むに止まれぬ欲望があってですね
    師匠推奨のラカン本に齧り付いている訳です。
    そこにまた乗り手に船の万年筆のマイブームで、さっぱりわからない本はわからないなりに写経するしかないだろーという
    変な理屈をつけて筆写している日々です。

    >「想定外」の未知の事象に出会ったとき、誰も「お薦め」してくれない事態に陥ったとき
    誰も経験したことのない道に踏み入らざるを得なくなったときに、進むべき方向感覚である「勘」が使いものにならない・・・

    内田師匠が京大で映画論の講義をしたときに、
    映画をいくら見ても映画がわかるようにはならない。
    それはサンマでサンマを切ろうとするようなものだ。
    サンマは包丁で料理しなければならないが、包丁は自前で準備しなければならない。
    そのためには今の自分には全く歯がたたない、ゴツイ固い本を
    何年かかっても良いからうんうん唸りながら読んで、
    読み終わったときにすっかり以前の自分と変わってしまっているような本を読みなさいと。
    そういうようなことを述べておられます。

    想定外の未知の事態に出会ったとき、その時もちろんこちらにはマニュアルはないのですが
    包丁があればなんとかなるかもしれません。

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