2013/01/28

逃げる意味

"えー、昨日「(映画)大脱走」のところでお話したとおりですね、
「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアンを中心として全ての欲望は編成される」と。
「大脱走」の場合はですね、それが存在すると、それが何を意味するかということを知られた瞬間に
全てが瓦解してしまうためにですね、登場人物全員がそれがないことを欲望する、
あるいはそれがあることを否認するもの、トンネルですね、
それを中心として物語が編成されておりましたが、
えーここではですね、
「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」、
えーこれがですね、
実はトラウマでもなんでもですね、全部に共通する条件なんです。

「それが意味することの取り消しを求めるシニフィアン」、
トラウマもそうですからね、それを中心として人間の欲望が構築されていると。
それについてラカンはこう書いていますな。
「シニフィアンというものは、その位置をずらしながらでなければ保持され得ないものである」。
うーん、こういう所にマーカーを引いてくださいね。
「その位置のずらしは原理的に次々と場所を入れ替えることで機能している。
一巡して元の場所に帰ってくるために、シニフィアンは最初の場所を離れなければならない。

シニフィアンの位置のずらしは、主体たちがどういう行動をするか、どういう命令に従うか、
何を拒絶するか、何を見誤るか、何に成功するか、どういう幸運を引き当てるか、
更にはどういう生得的な才能を備えているか、どういう後天的形質を獲得できるかまでをも決定し、
この決定には主体の性格も性別も全く関与しない。
そして心理学的な意見はすべていやもおうもなく、完全にシニフィアンの歩みに従うだろう」

すごいですね・・・。人間の中心、全てはこれ。まぁこれ非常にきっぱりとですね、
デカルト以来の心身二元論、コギトを中心とする自我論を根本から否定するような発言なんですね。
そうではなくて問題はシニフィアンなんだよ、運動するシニフィアン。
「転移」なんですね。ここで行われているのは、実はですね、シニフィアンのすり替え、
シニフィアンのすり替えのことを精神分析の現場では、治療の現場では「転移」と呼んでいます。"

2005年12月20日から4日間にわたって行われた「映画論」と題する内田樹氏の京都大学集中講義からの抜粋です。
この講演は汲めども尽きぬヒントの宝庫で、僕はこの7年あまりの間に
この講義をおそらく何百回、いやたぶん千回近く(笑)繰り返し聴いてきました。
そしてたぶんそのなかで一番コアな部分、それだけに一番わかりにくい箇所もここなんですが
それを耳ではなく目にして何度も掘り返したいと思いMP3から書き起こしてみました。
著作権を放棄しておられる内田先生のことだからたぶんクレームは来ないと思いますが
問題があれば削除します。
それにしてもこの講演内容を本にしてくれたらこんな苦労もいらないんだけど。
内田先生のサイトからはもうとっくの昔にこのMP3は購入できなくなっているし。

2013/01/27

rosehip

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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2013/01/25

写真論4 写らないカメラ

抜け落ちた夕暮れ
GRD4

前回も取り上げた鬼海弘雄氏の言葉について更に考えを進める。
鬼海弘雄氏が藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で「デジタルはたしかによく写る。だが写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない。
またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾(こ)したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」と述べておられる。

「デジタルはよく写るが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない」とはどう云う意味だろう。
普通に考えればそもそもカメラというのは写すための装置なのだから写らないカメラより、よく写るカメラのほうがいいに決まっている。

それなのに彼は写りすぎるのは良くないと言うのだ。
写りすぎると物事をよく考えないからだと。
ではその、よく考えなければならないモノゴトとは何なのか。

我々の欲望や知性は本質的に「欠落を埋める」というふうに働く。
作品を提示するということは「欠落を提示する」ということにほかならない。
彼が「物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない」という、その「具体的なもの」とは写っている具象のことではない。
それは欠落を埋めようとする我々自身の想像力のことである。
その想像力がとりもなおさずリアリティーであり、彼の言う「具体的なもの」なのだ。

作者が何を取り上げて何を取り上げなかったのか、何を取り上げようとして取り上げきれなかったのかを我々は作品から読み取ろうとする。
よく写るカメラはあたかもすべてが写っているかのようにみえる。
しかしそれは欠落が「ない」のではなくて、欠落が見えにくくなっているのだ。
鬼海氏にとって写りすぎる装置は作者の意図する欠落を隠蔽する。
提示する側も受け取る側も、写真がよく写っているために何が欠落しているのかがよく見えない。
おそらく彼はそのあたりの事情をこの文章で伝えようとしているのだ。

では「(デジタルでは)プロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」とはどういう意味だろう。

「濾す」というのはおそらく零次リアリティーから夾雑物を取り除くことを意味している。
「寝かす」というのは撮影時の昂ぶりが沈静化してその中から欠落があらわになるのを待つということであり、「発酵させる」というのは虚としての欠落の周囲にそれを欠落たらしめる構造物を構築する過程のことであろう。
具体的には、
濾すという工程は(一次リアリティー標準装備の)低パフォーマンスカメラがやっていて、寝かすという工程は現像が上がるまで待つ時間のことであり、発酵させるというのはおそらく暗室での焼付けを含む作品作りのことだろう。
これらの作業はすべて彼にとって零次リアリティーを孵化させて一次リアリティーに成長させるためになくてはならない工程なのだ。

最後に「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」とはどういう意味か。
おそらく写真は、普通に撮ったのでは「欠落が写らない」装置なのだ。

2013/01/22

写真論3 カメラの未来

winter cat

前回のお話の続きです。
最新のカメラに標準装備されている様々な仕様、例えば
高速シャッター、高ISO、撮像素子の大型化と高画素化、手振れ補正、
瞬速AF、HDR、防塵防滴、自動追尾、可動式液晶ライブモニターなどの技術は
以前なら撮れなかった被写体の撮影を可能にするための、いわば、
「生(ナマ)情報の拾い上げ能力の拡大のための進化」と言ってもよいでしょう。
前回私が、カメラはこれまで主に零(ゼロ)次リアリティを拡大する方向で進化してきたと述べたのはそういう意味です。

ここで藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で、鬼海弘雄氏が
「カメラは人と人を結ぶ関係性のためにある」と述べていたことを思い出してみましょう。
前項で取り上げた考察に従えば、鬼海弘雄氏にとってカメラというのは
一次(以降の)リアリティを共有するための道具ということになります。

もちろんメーカーの立場から言えば、そもそも一次リアリティの拡大は撮影者側のテーマであり、
企業は零次リアリティを拡大していくことで撮影者の一次リアリティ拡大に間接的に寄与しているのだと言えなくもありません。

ただ問題は、零次リアリティの拡大は必然的に一次リアリティの介入を妨害するという点です。
撮りにくいカメラで撮ろうとする思いも含めて、
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場だからです。
鬼海弘雄氏が前著のなかで、
「デジタルはたしかによく写る。だが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない。またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない。」あるいは「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる。」と述べておられるのも含味すべき言葉かと思います。

さて、では今後カメラはどの方向に向かうのでしょう。
おそらく零次リアリティを拡大していく流れは続くとしても
行き過ぎた零次リアリティの拡大は一次リアリティへ至る道をどんどん狭めていくと思われます。
「何でも撮れるけど何にも撮れない」あるいは「私は何を撮ったらいいんでしょう」というのはこのあたりの事情です。

車がどんどん高性能になって、もはや誰も車の夢を見なくなったように、
カメラの魅力もどんどん低下して、ついに人は写真を撮らなくなるのでしょうか。
プロは今までどおり仕事として高機能カメラを必要とするでしょう。
しかしアマチュアにカメラを使い続けてもらうために企業は何をすべきなのか。

それはやはりローテクの洗練ということになるわけですが
「無駄や不可能との交渉そのものが私達のリアリティなのだ!」ということを一般に喧伝しつつ
例えばアップルの製品でUIそのものが悦楽であるように
視覚に麗しく触感が官能的で、ひとつひとつの操作に深い味わいのあるカメラ。
操作に快感を導入することで〈結果的に〉ローテクであるようなカメラ。
ちょっと今の富士フィルムの路線に似ているでしょうか。
コシナ製レンズのヘリコイドのエロティックな触感なんかも
あれはAFでなくてMFであることがむしろ積極的な喜びになってるでしょ?
たぶんそういう方向。
大上段に振りかぶった割にはこじんまりした結論ですが^^。

2013/01/20

写真論2 カメラの進歩とリアリティ

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リアリティとは内的真実のことではないかと昨日お話しました。
しかし人はそれぞれ体験する内容も違うし、仮に同じ体験をしても受け取り方が違います。
内的真実としてのリアリティも、各個人によって当然異なってくるわけです。

自分にとってはリアルでも、他人にとってはリアルではないということもあるし、圧倒的多数がリアルを感じる作品というのも存在します。その違いはどこにあるのでしょうか。それを説明するために「リアリティには階層がある」と仮定してみましょう。


第1章 リアリティには階層がある

リアリティには階層があると仮定します。
まず零次のリアリティ。これは個人の脳による記憶や変性といった編集がほとんど加わっていない情報のことです。
いわば未加工の生(ナマ)情報。リアリティを内的真実と定義している本ブログの立場からすると、これをリアリティに含めるのは妥当とは言えません。そこでこれを「零(ゼロ)次の」リアリティとします。

次に生情報が個人的体験として編集された内的真実、これを一次リアリティとしてみます。
今日夕方帰宅途中に見た夕焼けの色は大学浪人時代に見た京都の夕焼けとそっくりだった、みたいな。
ただしどれほど個人的といっても以下の二次や三次の地域的、時代的、人類的な修飾を受けないということはありえないので、厳密な意味で個人的というわけではなく、比較的広がりの限定された内的真実という意味合いで用います。

その次は地域的あるいは時代的に共有されている実感のプールとしての内的真実です。
大阪では一家に一台たこ焼き器がある的な(笑)。これを二次リアリティとします。

その次は人類が共通に持っているヒトとしての類的・種的なリアリティ。
ヒトという生物が持っている言語・血縁・財貨サービスによるコミュニティに底流する実感のプール。
ここには人間社会、冠婚葬祭、霊的なもの、快楽、苦痛、喜び、悲しみ、愛憎など、人類に共通する深くて広いテーマが全て含まれています。
これを三次リアリティとしましょう。

その次の四次リアリティは生物のプール。
食・睡眠・生殖・呼吸・生存・死など。

その次は存在のプール。これは生死を超えた、存在の根源に繋がる内的真実。これを五次リアリティとしましょう。これは難しいですね。本当にこんなプールがあるのかな。まぁ想像的なプールと言っておきましょう。

ただしこれら一次から五次のリアリティは明確に区別できるものではなく、お互いに深く関係しあっていると考えられます。なぜなら我々は種的、歴史的影響を抜きの単なる個人としては存在し得ないからです。しかしそう言ってしまっては全てが混沌のスープに溶けてしまうので科学の流儀に従って「分けます」。

以上まとめると
零次リアリティ:個人の脳による編集を受ける前の生情報。
一次リアリティ:個人の内的真実。
二次リアリティ:地域的あるいは時代的な内的真実。
三次リアリティ:人類的な内的真実。
四次リアリティ:生物的な内的真実。
五次リアリティ:存在的な内的真実。

そしてこの次数が下へ行くほど、そのリアリティはより広い普遍性を獲得します。
ある写真が普遍性を持つかどうかはどの次元まで通じているかという次数のパラメーターに還元できます。その写真の持つリアリティの階層の深さが、共感の深さと広さに関係しているというわけです。
さらにこういう仮説を設けるとカメラという装置が何をしているかがイメージしやすくなります。
カメラは零次リアリティに関わる装置なのです。


第2章 カメラの進歩は盗みの進歩

カメラの黎明期に喧伝された信憑に「写真を撮られると命が縮まる」というのがあります。
絵描きが絵を描く場合はモデルと向き合ってコミュニケーションが立ち上がる時間的余裕が有るのに対し、カメラは一瞬で全てを抜き取っていくという性質上、スリに掏られたような印象を被写体に与えてしまうわけです。
実際カメラには盗撮的側面があるわけで、今便宜上写真を撮るという行為を盗みに例えて考えることも許されるでしょう。

初期のカメラは暗いと撮れない、動くものは撮れない、近寄らないと細部はわからない、ヘタだと撮れないという様々な制約がありました。
しかしその後カメラは暗くても撮れる、動くものも撮れる、近寄らなくても細部が克明に撮れる、ヘタでも撮れるという方向に進歩してきたわけですね。
これを泥棒に例えると塀が高かったり鍵が頑丈だったり番犬がいたりしても、その家から家財一式まるごと盗むことが出来るようになったと。つまりカメラの進歩というのは、

自由度がアップした(どんな家からでも盗れる)
情報量が増えた(風呂敷が大きくなってがっぽり盗れる)

という二方向への拡充であったと考えることが出来るわけです。
するとカメラの進歩はリアリティとどのように関係するでしょうか。
それを次の最終章で考えてみましょう。


第三章 カメラの進歩とリアリティ

カメラの進歩が自由度のアップと情報量のアップにあるとすると
それは零次のリアリティの拡充に相当します。
われわれはそこから「ほかならぬ私にとって意味のある情報」を抜き出して編集することで一次以降のリアリティを獲得します。

再び話を泥棒に例えると、
泥棒が集めた盗品から何を捨て何を取り上げるかという作業をする時
盗品の量が多ければ多いほど泥棒の作業は煩雑を極め悩みは深くなります。

例を変えて引越しの場面を想像してみましょう。
本棚や押し入れから本や雑貨や思い出の品などがたくさん出てきて、それを見ているうちに面白くなり、どれを捨ててどれを次の家に持っていくか判断がつかなくなり部屋はどんどん散らかっていく。
妻にせかされてやむなく捨てることになっても未練が残ってしまうという状況に、それは似ています。

泥棒は途方に暮れる。
いっそすべてをそのままアップして、リアリティの獲得は見ている人に任せてしまおうかという甘い誘惑にも駆られます。
実際、零次のリアリティには零次のリアリティとしての魅力があって、例えば対象が何であれ過剰なほどの精細さで切り取られていると、それは視覚を超えて触覚に訴えるほどの魅力を持つことも稀ではありません。写真を零次のリアリティとして提示するというのは、カメラの性能がアップしたことで生まれてきたスタンスなのかもしれません。

しかし高機能カメラを用いて一次リアリティを獲得しようとすると
とたんに撮影者は零次から一次への繰り上げに難渋することになる。
ロモやピンホールなどのパフォーマンスの低いカメラが一部で強く支持されているのも
もう盗品は少なくていいんだという流れの中で生まれてきたのかもしれません。

低パフォーマンスのカメラの利点は単に盗品が少ないというだけではなく
実は撮影するという行為がすでに零次から一次リアリティへの繰り上げになっているという点です。
それは何を撮るか、どこにピントを合わせるかという手作業のことです。
撮りにくいカメラで、それでもどうしても撮っておきたいという強い思いはすでに一次リアリティですし、
どこにピントを合わせるかというのも、自分は何を強調したいのかという一次リアリティです。
低パフォーマンスカメラは、実は一次リアリティを装備したカメラと言えるかもしれません。

高機能カメラでもオートフォーカスでなくマニュアルフォーカスで撮ると一次リアリティが入りやすくなります。
それはどういうことかというと、特にマクロで実感することですが
オートフォーカスでは撮りたいと思ったものに瞬時にピントが合うわけですが、これがマニュアルだと、
ピントを合わせていく過程で様々なものへの合焦を通り過ぎながら目的の合焦点に到達します。
その途中に予定外の魅力的な合焦ポイントを見つけ出すことがあるわけです。
それは私が意識では知りえなかった、いわば無意識の呼び声のようなものをキャッチし得た瞬間です。

このように、無駄とも思えるそぞろ歩きのなかに、一次リアリティが入り込んでくる。
無駄や不可能との交渉そのものが、一次リアリティの産卵場なのかもしれません。

じゃあ高機能カメラの立場はどうなる?ということになるわけですが、
多すぎる自由の中で、本来われわれは何をしたかったのかを再考する一助になればと思って
この長々しい文章を書いてみました。

文章のヒントを下さったwataponzさんに感謝します。



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2013/01/18

写真論1 リアリティについて

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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百鬼園先生の汽車旅行の随筆には旅行中ふと目に止まった情景やそれを見て湧き起こった感興が細密に描写されているので、先生は旅行中逐一メモを採っていたのだろうと、僕は思っていた。
今日ディーラーで車検の見積もりをしてもらいながらちくま文庫の内田百閒集成2「立腹帖」を読んでいたら巻末の保苅瑞穂氏の解説にこのようなことが書いてあった。

『あるとき百閒は、辰野隆との対談で、こんなことを言っていた。
辰野さん、僕のリアリズムはこうです。つまり紀行文のようなものを書くとしても、行ってきた記憶がある内に書いてはいけない。一たん忘れてその後で今度自分で思い出す。それを綴り合したものが本当の経験であって、覚えた儘を書いたのは真実でない。』

リアリティというものをどう考えるかは人によってまちまちですが
いったん忘れて、そのことを自分で思い出そうとして出てきたものがリアリティだというのです。
一般的には目にしたこと全てをメモに書き取って文章にすればそれがリアリティだと考えますが、経験したことのうち、あるものは消えてしまって永遠に思い出せず、さらに思い出せたものさえ、経た時間の中で変性してしまっているものがリアリティだというのです。

それを言い換えればインプットされたものがいったん個人にとっての重要性をもとに記憶という篩で選択を受け、さらにそれが時間を経ても自分の中で存続し得る資格を得るために変性という加工を受けるわけで、そのような、選択と変性を経たものが果たしてリアリティと呼べるでしょうか。

しかしまた一方で私達があるお話や映像をリアルに感じるのはどんな場合かを思い返してみると自分にも似た経験があったり同じような実感を経験したことがある場合に「リアルだなぁ」と呟いたりするわけです。その文章を読むことでかつて自分が体験したことを、あたかも今もう一度目の前で体験しているかのように感じる時にひとはリアルを感じるのでしょう。つまりリアリティというのは生々しい実体験の記憶と、その記憶への共感によって生まれるのではないか。
先日「名付け再考」で取り上げたユングのエピソードをもう一度取り上げてみましょう。

『ユングが、一九二〇年頃だったかアメリカ・インディアンのところに行くと、みんな太陽を拝んでいるのです。
ユングは感心して見ていた。いろいろ訊きたかったもので、昼頃になって長老のところに行き、「あなた方は太陽を拝んでいるけれども、太陽は神なのか」と訊いた。
そしたら長老が笑って、「あんなのは神ではない」と言ったらしいのです。
ユングが「朝、あなた方は太陽を拝んでいたじゃないか。神様じゃないのに拝んでいたのか」と言うと、インディアンの人々はユングの質問の意味がわからなくなってくる。
話をしていてだんだんわかってきたことは、要するに朝拝んでいるときだけは太陽は神様なのです。
「太陽は神であるのか、神でないのか」という我々の考え方は、悪いところでもありいいところでもある。
我々は、どうしてもそういう考え方をしてしまうのですね。 
今の話で言えば、西洋の発想では「薔薇は神ですか、神ではありませんか」と訊いて、神だったら拝む、神でなかったら拝まないということになるというふうに、何でも二つに分けて考えようとするのです。
インディアンの話を聞いてユングがわかったことは、こういうふうに書いているのですが、太陽が昇る瞬間のすべて、つまり、それを見ている私、共にいるみんな、それからおそらく雲など、そのすべてがものすごく内的な感動を生みます。それこそが「神」だと言うのです。
だから、これが神だと指し示せるものではなく、生きているということが神の体験になっているから拝むのです。
それを、どうしても近代人は、拝んでいる対象が神だと間違ってしまう。ここが非常に大事なところです。
今でも日本人には名残が残っています。山に登ったら大きな木にしめ縄がしてあったり、大きな岩にしめ縄がしてあったりする。
あれは、別に木や石が神様ではなく、大きい木や石に対面したときに感じるすべて、これが神なんです。
区別して考えるのは我々の癖であって、昔の人はそういう考え方ではなく、全体的なものを神と感じていたのです。こういうことがわかってきて、ユングが、このように言っています。
我々の人生にとって大事なことは、自分の体験である、と。』
河合隼雄「『「日本人」という病』P182-183.現代人の宗教性」〈ライブラリー潮出版社〉より。

上記の「神」を「リアリティ」に置き換えてみると非常によく分かる。
それは内的真実のことなのだ。

2013/01/16

1月16日

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Mamiya RZ67 Pro II
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Mamiya RZ67 Pro II
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日曜日に10枚撮ったけどアップしてもいいかなと思えたのはこの2枚のみ。
がっかりだけど、まぁ、これからこれから。

名付け再考

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ドクターによって胃カメラの方法は違うが僕の場合は患者さん一人あたり40枚の写真を撮る。
その1枚ごとに胃体下部小弯とか穹窿部後壁とかいった胃の番地名がある。
先日少し空き時間があったのである看護師さんに特訓と称して40区画の番地名を覚えてもらった。
一人が覚えると他の看護師さんも競って覚え始めた(みんな優秀なスタッフ達なんです。いつもありがとう)。

それからしばらく経ったある日のこと、検査に付いていた別の看護師さんが僕の撮影する各ショットと彼女が手にしていた写真集を見比べながら思わず「わぁ、全く一緒ですね!」と言った。
それは僕が別のときに撮った40枚の写真を彼女達がファイルしたもので、彼女はそれと僕が撮っているモニターの画像がすべてぴったり同じなことに驚いていたわけだ。

もともと胃の表面に区画が描かれているわけではない。そうではなくて区画はそれを見るものの頭のなかにある。同じ術者が撮れば3年前のAさんの「胃体上部後壁」は今撮っているBさんの「胃体上部後壁」と同じ映像になる。

ただ、面白いのは彼女は内視鏡看護師としてはベテランでこれまで無数の胃粘膜を僕といっしょに見てきたはずなのに、写真と実際に僕が撮る映像が完全に一致していることに今更ながら驚いたことだ。

写真はつまり僕の頭のなかにある区画であり、脳内に存在する区画を今見ている胃粘膜に当てはめてそのとおりに映像を切り取っているということを彼女はそのときはじめて気付いたのだ。

更に言えばもし彼女が胃の区画の名前を知らなかったら写真の「胃体上部後壁」と僕の脳内にある「胃体上部後壁」が同じものであるということを知りえなかったはずなのだ。

-------------------------

何を言いたいかというと、ひとはもともと区画線の引かれていない茫漠たる外界の一部を、名付けという行為によって他の場所から切り取り、その名前を脳内に取り込んで膨大なアーカイブに関連付けているということだ。その、アーカイブに取り込まれた「それ」の番地こそが「名前」なのだ。

以前僕は読み書きの出来ない女性が老いてから学校に通うチャンスを得たときのエピソードについて書いたことがある。
彼女は「赤い」という字と「夕日」という字を習った時に、夕日は赤いと知って感動の涙を流したという。
これは僕たちにはなかなか想像できない体験だ。
彼女は読み書きができなかっただけであって、これまで何百回も赤い夕陽を見てきたはずではないか。
どうしてその映像ではなく文字を覚えた時に感動したのか。

カール・グスタフ・ユングがインディアンの部落を訪れた時に朝地平線から登りつつある太陽だけが彼らにとって崇拝の対象としての神であったという。
科学的見地からすれば朝の太陽も昼間天頂にある太陽も夕日に赤い太陽もすべて同じ太陽であり、どこからどこまでが朝日、夕日と区分できるものではない。
しかし人がいちどそれを切り分けると、それが朝日となり夕日となる。
その、切り取った夕日というものは彼女がそれを夕日と名付けることによってはじめて外界から切り取られて彼女の脳内に導き入れられ、脳内の「赤い」という言葉の背後に広がる膨大な赤い印象に関連付けられた無数のアーカイブと地面に落ちた雷が広い大地を瞬時に通電するように接続したのだ。その電撃こそが、彼女に涙を流させたものの正体なのだろう。

看護師さんの発した驚きの一言があらためて僕に名付けや名前を覚えることの意味を考えさせてくれた。人の名前をさっぱり覚えられない僕だけど。


付記
むかしダウンタウンのごっつええ感じで見たコント。
いかにも南米人っぽい付け鼻をしたダウンタウンの二人。
病院のベッドで寝ている兄の松ちゃんは弟の浜ちゃんに自分の死期が近いことを告げる。
悲しみに沈む弟を慰める兄は、自分が死んだあとは親戚のおばちゃんを頼りにするように命じる。
しぶしぶ事態を受け入れる弟に兄の松ちゃんは、「実はな、今まで黙ってたけど、俺らはほんまは日本人ちゃうねん。ほんまはな・・・」と言って突然息を引き取る。
絶句する浜ちゃん。「えっ!?ホ、ホンマはナニじんやねん!」と叫びながらコントは終わる。

自分がどの国のアーカイブに繋がるべきかを知り得ないまま呆然とする弟。






2013/01/14

snow on the forest

snow falls

200回?

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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写真散歩に行くと言っても僕の場合は崖を這い上がったり樹々をかき分けながら道無き道を行ったり
さらに撮影時に長時間不自然な姿勢を維持せざるを得なかったりするわけだが
先日何かで作家の椎名誠氏(68歳)が今でも腕立て伏せと腹筋は200回、スクワットは300回を日課にしているというのを読んだ。
68歳でそんなことが出来るのか、いやそれは自らに課していればそんなことが可能になるのかと
自分もそんなことが出来たらいいなとぼんやり考える。
去年はいっとき腕立て伏せでもと思ってしばらくは30回を日課にしていたがやめてしまった。200回など夢のまた夢だ。

それで今日お風呂で湯船に浸かりながらぼんやり考えていた。
いきなり200回は当然無理だ。
しかし自分のセッカチな性格から考えると30回からどんどんペースを上げて
早く200回に到達したいと考えて途中で肩を痛めてやめることになるのは想像に難くない。
やはりここはゆっくり回数を増やしていくことが大切だろう。

例えば腕立てと腹筋とスクワットを1日5回やるとする(笑わないで読んでね^^)。
そしてそれを1ヶ月続ける(当然それくらいは楽勝だろう)。
次の月はその1.2倍の1日6回。
その次の月はその1.2倍の7回(小数点以下は四捨五入するとする)。
というふうに、毎月前月の1.2倍に増やしていくことくらいは、たぶん可能だろう。

そしてこれが肝心なのだが、楽勝だからといって勝手に回数を増やさない。5回といえば5回なのだ。
つまり決められた回数をただ続けていく。ただこなしていくとする。
そうして毎月1.2倍を繰り返していくとどうなるだろう。
椎名誠氏のように200回出来るようになるのは何年先だろうか。

お風呂から上がってから計算してみた。
最初は5回でそれに1.2をずっと掛けていくわけだから

5×1.2^n=200
1.2^n=40
nLog1.2=Log40
n=Log40/Log1.2
n=20.2

およそ20ヶ月、つまり2年弱で200回に達することになる。
いやまだ始めるとは言ってませんよ。
計算してみただけです(笑)。

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これは買ったばかりのスパイクブーツの裏側。
スパイクが写っています。ただそれだけの写真。

2013/01/13

1月13日

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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明日は風と雨と雪になる。それで今日中に撮っておかなくてはと思って出かけました。
この美しい表情をした枯れ葉はクモの糸でぶら下がっていて
風でくるくる回るので苦労したけど何とか撮れました。











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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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水辺の岩陰でみつけた威厳のある表情(?)の枯れ葉。













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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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輝く岩の表面には梅の花に似た模様が。













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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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そうです。川の中に入って撮ったのです。波の上で踊る葉の影とそれを撮る私。












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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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明るいレンズは背景が大きくボケる。
撮ろうと思ったものの背景がどんな模様を作るかは撮ってみるまでわからない。












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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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美しい背景に誘われて何枚も何枚もシャッターを切りました。













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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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大同ライトオックスブーツ#60NS

水の中にザブザブ入って行きたくてスパイクブーツを買いました。
ひざ下ぐらいまであるんですが深みにハマって結局濡れてしまいました。
今日の写真は全てマクロプラナー。
いっしょに持って行ったマミヤRZ67でも1本撮って夕方京都のエイエムエスに郵送。
来週火曜日くらいには返って来るかな。












Mamiya

D800Eでは100枚撮っても平気だけど6×7は1本10枚がちょうどいい。
というか10枚撮るだけでも大変。
やっぱりフィルムは自由度が低いから撮るのに苦労する。
上はAEプリズムファインダーFE701とマグニファイヤーを装着したRZ67 Pro II。
途中でマグニファイヤーを川の中に落としてしまったけど
レンズ内には水は入っていなかったので無事でした。
マミヤでも這いつくばって取りたいのでFE701に装着できるアングルファインダーが欲しい。
ちょっと調べてみよう。

2013/01/11

俳優という職業について

今朝のあさイチでゲスト出演していた上戸彩さんが
ある役柄を演じると実生活もそういう人かと思われるのが嫌で
以前はあまり俳優という職業が好きではなかったが
ドラマ3年B組金八先生で性同一性障害の役を演じた時に
視聴者からドラマを見て救われましたという手紙をもらって
俳優という職業の素晴らしさに気が付いたと言っていた。

僕はその言葉でようやく僕なりに俳優という職業のイメージを持つことができた。
そのイメージのコアになる言葉は「憑代(よりしろ)」である。

憑代とは難しい言葉だが、それと似た言葉で憑依(ひょうい)するというのがある。
平井堅の歌に「君が僕に憑依した!!」という歌がある。
彼女が僕の心に取り憑いてしまったという内容の歌だが
憑依というのは乗り移ることで「悪霊に取り憑かれる」「狐憑き」などにみられるように
神仏や霊魂などに乗り移られて異常な行動を取り始めることを言う。

それで「憑代(よりしろ)」というのは何かというと
神仏や霊魂が入り込む「入れ物としての」モノや生き物のことである。
だから先程の歌で言えば「僕」は「彼女」の憑代ということになる。

似た言葉に「イコン」がある。
PCのアイコンもイコンだが、これはある意味を請け負った形像のことで
憑代とイコンの違いは
すでに存在しているモノや生き物を入れ物とするのが憑代で
意味を請け負うものとしてあとから作り上げられたものがイコンである。

で、ここでようやく上戸彩の話に戻るのだが
あの上戸彩の話の中で何が起こっていたのか。

1.上戸彩はドラマで性同一性障害の役を演じた。
2.それを見ていた性同一性障害の視聴者が、上戸彩が演じていた役柄をみて救われた気持ちになった。
3.上戸彩はその人からの手紙を見て自分が行った行為の意味を知った。

視聴者は自分の内なる性同一性障害が
ドラマの中でひとつの役柄として外界に形象を与えられているのをみることで
無形の「性同一性障害性」を有形化することができた。
自分を悩ませていた「世界の中における「性同一性障害性」の位置づけの不安定さ」を有形化することで
「捕えどころのない悩み」を「捕えどころのある悩み」に変えることができたのだろう。
人は自分を悩ませている無形の問題を、言葉やイメージとして有形化することで
「取り扱いできない問題」を「取扱い可能な問題」に変えることが出来る。

さて、ここで俳優は何をしているのか。そして上戸彩は何に気がついたのかを考えてみよう。

ひとびとの間に、まだ有形化されていないテーマがある。
そのテーマは時代の無意識の中で次第に大きく強くなってきてはいるが
まだ姿を与えられていない。
テーマは次第に大きくなり、無意識の層の中でどんどん膨張して圧力が上昇する。
何とかして意識の表舞台に飛び出したいが飛び出せないでいる。
あとちょっとしたきっかけがあればテーマは表舞台に噴出するという、その刹那。
それは例えばこのような情景を想像するとわかりやすい。

焼き網の上でお餅を焼いているといい色に焼けてきた。
表面が焦げて盛り上がってきたがそこで止まってしまった。
そんな時に表面の一点をお箸でチョンと突ついてやると
それをきっかけに表面がパカっと割れて一気にお餅がプーっと膨らむ。

ドラマのプロデューサーはその一点に、テーマの憑代として最も適した人物を置く。
すると抑圧されてきたテーマはそれをきっかけに、モデルの中にマグマのように噴出し
モデルは化け物のように巨大化して観ている人の心の中に奔流となって雪崩れ込む。

俳優というのは時代の、人間性の、
まだ姿を与えられていないテーマの憑代になるという役割を負っているのかもしれない。

どんなひとが憑代に適しているだろう。
おそらく時代のテーマという巨大なものをまるのまま飲み込めるひと
それは、自我を一旦消滅させて「すっからかん」になって
そこで起きていることに丸のまま身を委ねられるひとが
よりよく憑代に適しているだろう。
そしておそらくそれは最初からすっからかんな人ではなく
すっからかんを出来る人だろう。


grass

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orange

orange

2013/01/06

暮方

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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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このまま一日が終わってしまうのが惜しくて
せめてシャッターの音を聞きたいと夕方カメラを持って近所に散歩。
マクロプラナーはこういう縁石沿いの立体感を描くのがうまし。











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Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
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自分の背より高い鉄条網。
片手でカメラを持ち上げてライブビューで構図を探りながらパチリ。
ああ、今日はもうこの一枚が撮れただけで幸せです。

自我の受け皿としてのソンブレロ

この歳になってよく思うのは若いころの自分というのは、
そして実はいまだに時としてそうなのだが常に両極端の間を揺れ動いていることで
傲慢かと思えば卑屈、高揚しているかと思えば絶望、憧れているかと思えば軽蔑という
あれかこれかの極端な気持ちでいることが多かったことだ。
その中間の、穏やかな謙虚な気持を維持し続けるということがどうして出来ないのだろう。












それを理解するためにある種の概念図を考えてみた。
例えば若いころの自我の受け皿というのはこのような形をしていて
帽子の上に自我というボールを置くとすぐに転がり落ちてしまう。そしてそこにあるのが
傲慢と卑屈
高揚と絶望
憧れと軽蔑
好きと嫌いといった両極端で
山のてっぺんにいる時間はわずか。
むかしフォークシンガーの三上寛が「怪傑自己嫌悪」という歌を歌っていたが
何をしていても怪傑「自己嫌悪」がやってきて穏やかな気持を蹴散らして去っていく。
その、両極端にいることに耐えられずに自我というボールを押し上げていっても
結局ボールはもとに戻るか山の向こう側に転がり落ちてしまうという
シジフォスの神話さながらの日々。















しかし年令を重ねていくと
でっぱりが低くなり、平坦になり、やがてへこみ始める。
いやひとによっては若い頃からそうなのかもしれないが
労せずして気持ちが落ち着く。
問題はこの受け皿の縦軸とは何なのかということだ。
わからん。



追記
えとですね、わからんのになぜこんな駄文をアップしたかというと
フリーのソフトで初めて3次元CG画像を作ってみたからです。
こんな簡単な作業にすごく苦労したよじいちゃんは。

2013/01/04

winter wonderland

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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with Nikon AF Micro-NIKKOR 200mm f4D IF-ED
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Nikon D800E with Nikon AF Micro-NIKKOR 200mm f4D IF-ED
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with Carl Zeiss Distagon T* 2.8/21 ZF.2
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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Nikon D800E with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
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2013/01/03

ニコンのアングルファインダー問題


みなさんあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

さてお正月にふさわしい話題とも思えないのですが
かねて私にとって大きな悩みであったところのアングルファインダー問題について、一応の解決を見たのでご報告させて戴きたいと思います。

まず私のようにマクロを好んで撮るカメラ人類にとってこのアングルファインダーというのは、なくてはならない相棒です。
なぜそうなのかについては今日のテーマから外れるのであえて申しませんがとにかく地べたに這いつくばって小さな物を追いかけるときに可動式液晶ライブモニターのないデジカメにおいては必携と言ってもよいでしょう。

それでそのアングルファインダー問題というのは何かというとニコンの丸窓ファインダーはねじ込み式なのでまずアイピースをくるくる回して外した後やはりアングルファインダーをくるくる回して装着することになるのですがこれが実にはまりにくい。

水辺や崖や森の中など、不安定な体勢でこのくるくる作業をするとくるくるくるくるくるくるくると、回しても回しても回しても溝が合わなくていつまでたっても装着できないのです。
あー、そんな時はもうちょっとで気が変になってしまいそうです。
私は天を仰いで呟きます。
「ああ、ニコン様、何故にこのようなくるくるファインダーを作られたのですか。いったいなぜ私はこの咎を受けなければならないのでしょう。 何故に私は延々とこのアングルファインダーをくるくる回さねばならぬのでしょう!」まるで旧約聖書のヨブのような気分です。

そして私は実はD800Eの前のD700を買った時からこの問題について悩み続けてきました。
ネットでこれを解決したひとが、きっといるに違いないと何度も探してみましたが解決法を見出すことは出来なかったのです。

しかしこのお正月に私はついにその解決法を見つけることが出来ました。価格コムのekeekeさんというひとがD800にミニボーグを装着する記事の中でさらっとその解決法を書かれているのを発見したのです。

ekeekeさんはキヤノンのアングルファインダーを装着していました。キヤノンのアングルファインダーならノリタ用に買ったものを私も持っています。ノリタはウエストレベルファインダーが手に入ったのでさっそく私はこれをD800Eに使ってみることにしました。


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D800Eに装着している接眼補助レンズDK-17C。
(私は以前標準のアイピースを落としてなくしてしまったのです)



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そのゴムリングを外します(前述の理由で標準のアイピースもこのようにゴムが外れるかどうかは未確認です)。



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DK-17Cを1回転半緩めるとこのようにファインダーとの間に隙間ができます。



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キヤノンのアングルファインダーBです。製造は終わってますがネットでは3000円くらいで中古品が売られています。



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キヤノンアングルファインダーBの付属品の金属アダプターがさっきの緩めたDK-17Cの溝にスライドインするわけです。もちろんDK-17Cは円形でアダプターの溝は直線ですから回せば回転しますがDK-17Cとファインダーの間の隙間を狭くすれば(それがつまり1.5回転の意味なのですが)割合ぴったり固定できます。


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キヤノンのアングルファインダーをスライドインさせます。



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完成です。なんとあっけない解決でしょう。



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アングルファインダーを使わないときは
DK-17Cを締めておけばいいわけですね。


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いやいやいや!それではワシは納得いかん!
キヤノンのアングルファインダーBの倍率は1×じゃないか。せっかくニコン純正の、1×と2×の切り替えのできるDR-5を持っているのに使えないのは実に悔しい、なんとかこれを装着できる方法はないものか。

えっとですね。ここからはいわゆる自己責任です。
上手く行かなくても私は責任をとりません。
それでも話だけは聞いてやろうと思う人は読み進めて下さい。


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まずこれは先程のキヤノンアングルファインダーBの金属アダプターです。



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裏返すとネジが4つありますね。



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これを外します。



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するとプラスチックのリングが外れます。



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次にニコンDR-5のファインダーとの接合部のリングを外します。この時上図のように4つのリングがポロポロはずれますが右端の黒いリング(これをAと名付けます)をあとで使います。

追記:
(4つのリングのうち一番左にあるのはDR-5の説明書の④(カメラ取り付け部)と⑥(アダプターリング)が一体化したものです。
私は⑥がカメラのファインダー側に残るのが嫌で④と⑥を接着剤で固着して使っていました)


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DR-5の各部の名称です。


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DR-5にキヤノンアングルファインダーの金属アダプターをかぶせます。


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さっきの黒リングAを


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かぶせて締めます。
ところがこの出っ張りがDK-17Cに干渉してスライドインさせることが出来ないと判明。そこで気を取り直して黒リングをはずします。


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手近にあったパッキンを使います。


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このパッキンをここに置いて


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金属アダプターをその上からかぶせると、出っ張りが減りますね。
つまりさっきのパッキンはスペーサーなわけです。
この一連の作業が成功するかどうかは、間にかませる適当な材料が見つかるかどうかですが真ん中をくりぬいた厚紙でも構わないと思います。


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その上から先ほどの黒リングAをかぶせて締めます。
もう一つの問題はこの締め付けに使う黒リングが
キヤノンの金属アダプターの穴よりほんのわずかに大きいだけなので締め付けていく時にずれるとうまく金属アダプターを締められないということでそれはもう加減というべきでしょう。
それから締め付けるのに精密ドライバーセットのマイナスドライバーで上図の二つのミゾをグイグイ押して回しながら締めていくのですが結構力が要ります。手元が滑ると怪我をするので気をつけてください。


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やれやれ、夜中にようやく完成しました。


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無事スライドイン出来ました。
もうこれで悪夢のくるくる地獄とはおさらばです。

以上新春の寿ぎとともに同じ悩みで日々悶々としておられる御同輩に多少とも参考になればとお送りしました。



4年後の追伸(2017/02/07)
実はもっと簡単な方法がありました。
上述の方法ではアングルファインダーを装着するのに毎回アイピースを1.5回転緩めなければならず、かつアングルファインダーをはずした後でアイピースが緩んでいるのをうっかり忘れてアイピースを落としてなくしてしまったりしましたが、先日この方のサイトを発見。
オリンパスのアングルファインダーVA-1をアタッチメントのVA-A2を介してカチッとはめるだけの簡単操作です。
ニコンのアイピースをやすりで削ってVA-A2のミゾにはめればよかったんですね。
中古のVA-1を安く手に入れてやってみたら文句なしのできばえでした。
旧吉野川さんに感謝です。

以下その参考写真





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