2013/01/25

写真論4 写らないカメラ

抜け落ちた夕暮れ
GRD4

前回も取り上げた鬼海弘雄氏の言葉について更に考えを進める。
鬼海弘雄氏が藤田一咲氏の「ハッセルブラッドの日々」の中で「デジタルはたしかによく写る。だが写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない。
またプロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾(こ)したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」と述べておられる。

「デジタルはよく写るが、写りすぎて物事をよく考えない。物事は欠落した部分がないと具体的なものは見えてこない」とはどう云う意味だろう。
普通に考えればそもそもカメラというのは写すための装置なのだから写らないカメラより、よく写るカメラのほうがいいに決まっている。

それなのに彼は写りすぎるのは良くないと言うのだ。
写りすぎると物事をよく考えないからだと。
ではその、よく考えなければならないモノゴトとは何なのか。

我々の欲望や知性は本質的に「欠落を埋める」というふうに働く。
作品を提示するということは「欠落を提示する」ということにほかならない。
彼が「物事は欠落した部分がないと、具体的なものは見えてこない」という、その「具体的なもの」とは写っている具象のことではない。
それは欠落を埋めようとする我々自身の想像力のことである。
その想像力がとりもなおさずリアリティーであり、彼の言う「具体的なもの」なのだ。

作者が何を取り上げて何を取り上げなかったのか、何を取り上げようとして取り上げきれなかったのかを我々は作品から読み取ろうとする。
よく写るカメラはあたかもすべてが写っているかのようにみえる。
しかしそれは欠落が「ない」のではなくて、欠落が見えにくくなっているのだ。
鬼海氏にとって写りすぎる装置は作者の意図する欠落を隠蔽する。
提示する側も受け取る側も、写真がよく写っているために何が欠落しているのかがよく見えない。
おそらく彼はそのあたりの事情をこの文章で伝えようとしているのだ。

では「(デジタルでは)プロセスがなさすぎて、自分の持っているものを濾したり、寝かしたり、発酵させることが出来ない」とはどういう意味だろう。

「濾す」というのはおそらく零次リアリティーから夾雑物を取り除くことを意味している。
「寝かす」というのは撮影時の昂ぶりが沈静化してその中から欠落があらわになるのを待つということであり、「発酵させる」というのは虚としての欠落の周囲にそれを欠落たらしめる構造物を構築する過程のことであろう。
具体的には、
濾すという工程は(一次リアリティー標準装備の)低パフォーマンスカメラがやっていて、寝かすという工程は現像が上がるまで待つ時間のことであり、発酵させるというのはおそらく暗室での焼付けを含む作品作りのことだろう。
これらの作業はすべて彼にとって零次リアリティーを孵化させて一次リアリティーに成長させるためになくてはならない工程なのだ。

最後に「写真がいかに写らないかを知った時、そこから写真は始まる」とはどういう意味か。
おそらく写真は、普通に撮ったのでは「欠落が写らない」装置なのだ。

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