内田樹師匠の今日のブログは非常に示唆に富む内容でした。
http://blog.tatsuru.com/2007/12/21_0848.php
ブログを読んでいて、僕の頭にもスイッチが入る。
「もしもし。あのー、それがしは山盛雪乃丞と申すものですが」
冒頭の「もしもし」というのは、おーい、私とあなたはつながってますか?という意味で、私達が他者とのコミュニケーションを立ち上げるときに最初に行うつながっているかどうかの確認、いわば「通電確認」である。
私達はコミュニケーションを開始するときに、まず通電確認のスイッチを入れる。
そうか。コミュニケーションというのは情報の一次元的なつながりではなく、それを俯瞰する三次元の広がりがあるのか。
さらに話題はそれだけにとどまらず、ケータイを含め、現在の我々のコミュニケーションの重心は情報の交換ではなく、通電確認の方に一方的に偏重しているのではないかという言説にハタと膝を打つ。う~む、なるほど!今の子供たちがケータイを決して手放そうとせず、「私達って、つながってるよね」という確認作業を、中毒のように延々と繰り返さざるを得ないのは、会話の内容に意味があるのではなく、通電確認が得られなくなることが即座に生存の危機を意味するからなのだ。
なぜそんなことになったのか。
それは私達が「伝える価値のある情報」をなくしてしまったせいではないか。
さらにいえば、私達が失ったのは情報ではなく「価値」ではないか。
私達は情報の価値を失ってしまったのだ。
なぜ情報に価値がなくなったのか。
それは私達がもはや生きのびようと思っていないからではないか。
私達はもはや生きのびることは望んでおらず、ただつながっていることだけを望んでいるのではないか。
情報の価値がなくなることで「通信」そのものの存在意義は消滅する。しかし通信がなくなるとつながりが途絶してしまう。そこで私達は情報の代わりに「通電確認」だけを延々と繰り返す。
だからこの通電確認の出来ないもの、「空気の読めないやつ」に用はないのだ。
ネットで自殺願望の人と連絡を取って、一緒に死ぬ。
私達はつながってさえいれば死んでもよいと思っているのではないか。
2007/12/21
通電確認
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