「少なくともこの件に関しては、いま解(ほど)かれては困る」と思っている人にとって、解く人はやっかいな存在です。
勝手に解かれると困る。だから解かれると困る人から見ると、解く人には何か悪意があるように思えてしまう。
でも解く人にとって、何を解くかはあまり重要ではなくて、解くという行為そのものがテーマです。
解く人が解きの美について語ると括る人(くくるひと)は腹を立てる。
括ることも解くことも、どちらも知性の働きですが、物事はほっといても自然に結ぼれを作るので、絶え間なく解き続けることの意義は大きい。
あるいは遊技として結ぼれを作り、遊技として解くことを繰り返すことで、頑固な結ぼれが自然発生することを免れることができる。
解く人が必然的に纏うことになるこの遊技性が、括る人には勘弁ならないのかもしれない。
んんん、、とっても哲学的な感覚なんだろうなぁ、、、と思いつつも、ふとおみくじが結ばれた枝や絵馬、新体操のリボン、結納品のこより細工を思い出してしまう私。何となくごめんなさい。
返信削除コメントありがとうございます。
返信削除えー。例によって単なる独り言です。
独り言をブログにアップするなんてね。でも開かれた独り言っていうのもありでしょ。
TiM3です。
返信削除「括りの美学」と言うものも、そうなると存在するのでしょうね。
人体が完全に「無菌状態」になると、人間は生きていけないそうで(とどっかで耳にしました)・・程よい「妨害」「反発」などが、案外なにごとに対しても必要なのかも知れませんね。
>程よい「妨害」「反発」などが、案外なにごとに対しても必要なのかも知れませんね。
返信削除そうですね。でもなかなか「妨害」を感謝して受け入れるのは難しいですね。