
GRD2
1台目はCCDのゴミ、2台目は片ボケで交換になったGRD2君。
3台目がやってきました。
GRDそのものも、銀塩のGRが初代、デジタルのGRDが二代目ですから、GRD2はGRの三代目ということになります。

GRD2
江戸の川柳に「売り家と、唐様で書く三代目(うりいえと、からようでかくさんだいめ)」というのがあります。
初代は文字をきちんと習う暇もないほど馬車馬のように働いて財をなし、二代目は素直に父親の跡目を継いで堅実な経営で安定期を迎え、三代目は初代の苦労を知らず富裕な家庭で何不自由なく育ったために、学問や趣味や道楽で身を持ち崩し、家を売る羽目になる。
家を売るにしても、三代目は根っからの趣味人なので、家に貼る「売り家」という張り紙の書体ひとつにも凝ってしまって、ここはやはり今流行の唐様(中国の唐の書体)でなくてはなるまい(当時の流行の最先端は中国だったんですね)というわけです。
家を売らなければならない悲劇と、ついついトレンディーな書体で「売り家」と書いてしまう三代目らしさがおかしい。

GRD2
フォークソングが全盛だった頃に彗星のように現れた荒井由美(ユーミン)は、当時キャベツばかりを噛んでいた四畳半の住人たちの中に、超絶的に垢抜けた世界を出現させました。
泉谷しげるなど、当時のフォークシンガーたちは彼女の実力に舌を巻くと同時に、オシャレなコード進行だけじゃねーかというやっかみを口にすることが多かったように思います。
ユーミンは三代続いた老舗の呉服屋さんの娘で、自分の音楽は簡単に作れるわけではないという意味を込めて「三代続かなくちゃ駄目なのよ」と言ったとか。
以上は僕の古い記憶なので間違っているかもしれませんが、まあ事ほど左様に三代目というのはそういうもんなんですね。
さて、話は変わりますがGRDとDP1は何が違うのか。
それが今日わかった気がする。

GRD2
僕の印象では、GRDには日常が写り、DP1には非日常が写る。

GRD2
僕はどうも日常の中に隠れている非日常的なものを追っているみたいで、マクロが好きなのもそれが理由かもしれません。
DP1で撮影すると、ありふれた景色にちょっと変なものが入る。
変なものと言っても、背後霊とかではなくて(笑)、気配(けはい)。ちょっとこの世ならざる気配。
普通のものを写しているのに、そこには普通でないものが写ってしまう。普通に撮っても普通でなくなる傾向がある。
それは僕だけの現象ではなくて、ほかの人がDP1で撮った写真を見てもそれは写っている。
その理由は、DP1で撮った写真が超絶的にリアルであることと関係がありそうだ。
現実を超細密に描くとそこに非現実が現れるように、
DP1はリアルの向こうにある超リアルが「写ってしまう」カメラなのではないか。
だから、実は非日常を追っているのは僕ではなくてDP1なのかもしれない。
僕は実はこのカメラに非日常を撮らされているのではないか。
でも撮っているにせよ、撮らされているにせよ結果的に僕は満足な日々を送っているわけだからそれでいいんですが。
さて、GRD2は素直なカメラです。
撮れば、そのまま日常が映る。
だから日常のスナップにはもってこいのカメラです。
でもDP1で写る非日常をこのカメラで追おうとしても難しい。どうしても日常になってしまう。
撮るカメラによって見える世界が違うという、ありきたりな結論で今日のお話はおしまいです。

GRD2