2012/08/31
崖の上のポニョについて考える。
先日テレビで崖の上のポニョが放映されたけれども
その時に宮崎駿監督が映画公開時に以下のように述べたということを知った。
「俺の領域に土足で入ってきたのは嫌みだろうか、
きっと吾朗が5歳のときに、自分が仕事にかまけていたのがいけなかったんだ。
吾朗のような子を作らないためにこの作品を書こう」
ポニョは僕にとって宮崎駿監督作品の中でもとりわけよくわからない映画だった。
しかし今回遅まきながらこの発言に接して思いついたことを書いてみる。
ポニョのあらすじとはこのようなものだ。
海の魔法使いフジモトとグランマンマーレとの間に生まれた子供がポニョ。
いつも父のいない宗介はポニョと仲良くなる。
フジモトはポニョが宗介と仲良くなると大変なことになると考えポニョを宗介から引き離そうとする。
しかし宗介はポニョとともに船に乗って海に出る。
困ったフジモトはグランマンマーレに相談する。
グランマンマーレはポニョを人間にして宗介と結婚させれば良いという。
グランマンマーレは宗介に、ポニョはもと魚だがそれでも構わないかと聞く。
グランマンマーレはポニョに、人間になったら魔法が使えなくなるがそれでも構わないかと聞く。
二人は合意し婚約する。
フジモトは宗介におもちゃの船を渡し、いろいろすまなかったと言う。
これを上述の発言を元に翻訳するとこのようになる。
宮崎駿と芸術との間に生まれた子供がアニメーション。
いつも父のいない吾朗はアニメーションと仲良しになった。
宮崎駿は吾朗がアニメーションに興味を示すと大変なことになると考え、吾朗がアニメーションに関わることに猛反対する。
しかし吾朗は監督としてアニメーションの仕事を始めてしまう。
困った宮崎駿は芸術の神に相談する。
芸術の神は言う。吾朗にとってアニメーションはかつて夢や憧れにすぎなかったが、彼がそれを生涯の仕事として引き受けるならそれはそれで認めるしかないではないか。
芸術の依代として宮崎駿は吾朗に、アニメーションを生涯の伴侶とするというのは並大抵のことではないがそれでもよいかと聞く。
芸術の依代として宮崎駿はアニメーションに対し、おまえは吾朗にとってもはや夢や魔法ではなく厳しい仕事として立ち向かわなければならないがそれでもよいかと聞く。
二人は合意の上婚約する。
宮崎駿は吾朗に監督する権限を与え、今までいろいろすまなかったと言う。
ただし宮崎駿氏自身はこういった理屈で映画を作っているのではない。
むしろ彼の言葉を借りれば「脳みそに釣り糸を垂らす」ことで無意識の世界から釣り上がってくる、得体のしれない巨大な何物かを中心として物語は誕生し成長する。
ポニョが公開される前にNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で放映された宮崎駿氏のドキュメンタリーではポニョが巨大な魚の群れに乗ってやってくるイメージボードが長い苦しみの末に誕生する。
その絵を見ながら彼はうれしそうに言う。「ああ、恐ろしい。ああ、怖い」
そして言う「この映画の本質はあの1枚なんですよ。ほかのスケッチは全て現象であって、これが映画の最初の1枚なんです」。
さらにこのドキュメンタリーの中で彼は息子のゲド戦記の試写会の最中に、見るに耐えないという表情で会場から抜け出し「気持ちで映画を作っちゃいけない」と吐き捨てるように言う。そして映画に対する感想をインタビュアーに聞かれ「僕は自分の子供を見ていたよ」と答える。「え?」と問い返すインタビュアーに追いかけるように「大人になってない」と答える。
この、息子に対する謝罪とも言えるポニョという映画を作りながら、彼は依然として息子を許してはいないのだ。
彼は何に対して腹を立てているのか。
宮崎駿氏はグランマンマーレ(芸術の神あるいは獰猛で豊穣な無意識の海)と結婚したことで文字通り多産(アニメ、小さなたくさんのポニョたち)に恵まれたわけだが、この映画の中で吾朗氏が結婚した相手はアニメーションなのだ。
アニメーションと結婚することで多くの子供を生み出すことははたして可能なのだろうか。
内田樹氏は以前京大で映画論の講義をした時にたくさん映画を観たからといって映画批評が出来るようになるわけではないと言った。
料理人は包丁を使って魚を調理するが、映画を観て映画批評をするというのは魚で魚を調理しようとするようなものだと。
宮崎駿氏が吾朗氏の婚約に反対したのはその相手がグランマンマーレではなくポニョだったからではないか。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
千と千尋の神隠しは内容も奥深く大好きでしたが、ポニョは30分で耐えられなくなってそれ以降は寝てしまっていました。
返信削除あの親子の確執は知ってました。よく分からないから、ただ息子の映画作りの思想が気に入らないのだろうと思っていました。吾朗氏の映画は見たことがないので、評価は出来ませんが・・・。
shinさんの考察を読み進めて、最後の言葉で「なるほどそういうことだったのか」とすんなり納得できました。
吾朗氏はどうでもいいけど、宮崎駿氏にはあの「千と千尋」や「もののけ姫」級の作品をまた作ってもらいたいですね。もう無理かもしれませんが・・・。
jawaさんありがとうございます。
返信削除僕が個人的に好きなのはラピュタ、魔女の宅急便、ナウシカ、紅の豚です。
映像だけでうっとりしてしまうのは千と千尋とポニョですね。
面白い考察ですね〜。
返信削除吾郎作品には芸術との契りを感じませんか?
僕はゲド戦記とコクリコ坂見てますが、、、、う〜んアリエッティの方が良いかなあ(笑)
しかし師匠がジブリフリークだったとは!
ならば東京FM & Podcastで配信されている鈴木敏夫氏の番組はご存知ですか?
個人的にはジブリの作品自体にはもちろんですが、それに負けず劣らず鈴木敏夫氏の敏腕ぶりにいつも心躍らされています。
wataponzさんありがとうございます。
返信削除世間にはアニメフリーク、特に宮崎駿監督作品にはとりわけうるさいひとがいっぱいいるので
僕の駄文を読んで「な~にを寝言を言ってやがる!なんにも知らないくせに」という批判が来るに違いないと思っていたので
ブログにアップして2日経ちましたがまだ嵐の前の静けさを保っています(笑)。
僕はアニメフリークでもないし宮崎駿監督の作品や鈴木敏夫氏について人一倍熱心というわけではありません。
ただ汲めども尽きない豊かな映像イメージの宝庫であり超一流のエンターテインメントの作者として、
またその作品いずれもが、現代の我々が背負っている深い病とがっぷり四つに組んで逃げないこと(しっかり病んで、しかも死なない)
恐ろしいほど悪の根深さを知っているくせに希望を見限らないこと、理想を捨てない現実主義者として深く尊敬しています。
吾朗さんの作品は観たことがないのです。観たことがないのにこんな文章を書くのもどうかと思いますが
僕が興味が有るのは宮崎駿氏が吾朗氏の何に腹を立てているのかという点です。
そもそもこの文章を書くきっかけになったのは、
宮崎駿作品において、なぜ少女が父的なものを担わねばならぬのかという疑問でした。
そしてこのポニョもやはり日本において「不在」としてしか表現されない父なるものを巡って描かれている作品なのではないか。
「父の不在」を中心に描かれたお話。
そして宮崎駿氏は「許さない」という否定の形で、吾郎氏の前に立っているのではないか。父として。
ほんとにshinさんの守備範囲の広さには尊敬というか畏怖というか
返信削除チェイスする気持ちが萎えてしまうくらいです。
ジブリかぁ〜
う〜ン、宮崎駿さんは「ナウシカ」の朝日ソノラマ刊のコミック原作本で少し嵌まりましたが、僕としてはカルチャー分析のつもりで大友さんの「AKIRA」と読み比べていた時期があります。
ちょうど汎神論的なカルト教派が大きく世間を騒がせていた時期でしたし...
むしろ僕は宮崎さんの雄大な飛行イメージの中に人間の根源的な想像力への讃歌を見ていたので、ムービーでは「ラピュタ」の嵐のなかを複葉機で飛行する場面で亡くなった父親の幻影が雷鳴の中を主人公を誘導するシーンが印象的です。
それは、実は宮崎さんの作品に頻出する飛行イメージの源泉が
サン=テクジュペリの一連の複葉機パイロット小説にある、という
僕自身の勝手な私見があるからです。
例えば「ラピュタ」の雷鳴の場面はテクジュペリの「夜間飛行」の最終場面を
思い出させるというか、それそのものですし
「人間の大地」「南方郵便機」「戦う操縦士」などのテクジュペリの豊かな作品群には、きっと宮崎氏も特別な思い入れがあるに違いない、と僕は思っています。
でもテクジュペリ自身の立ち位置はとても男性的で父親的なものなので
ここでのshinさんのコメントとはあまり関連はなさそうですが...
hiroshipsさんありがとうございます。
返信削除日本には「父探し」というテーマを扱った話があまり無いような気がするんですが
いやじゃあ外国にはあるのか!と胸ぐらをつかんで問いただされると涙目になるんですが、
その中にあって宮崎駿作品には、はっきりとではないけれど父探しが潜んでいるような気がします。
というのをhiroshipsさんがいま教えてくれたラピュタの件でも思います。
この日本では永久に父は見つからないかもしれない。
しかし不在としての父のまわりを、父探ししながら旋回するという運動が
今の日本にはとても必要なことなんじゃないかとぼんやり考えています。
連投すみません
返信削除う〜ん、特に日本独特という事よりも
父概念=神概念という
基本的なメンタリティーが希薄だというアジア的実情がすべてかもしれませんね。つまり西欧では創造神=父親という根源的な認識の上にすべてが築き上げれて来た、という事が多神教稲作文化の極東地域との違いでしょうし...
shinさんには釈迦に説法になってしまいそうなので
あまりうまくは言えませんが
無神論者が現世的に栄えるためにはむしろ「神」がいないことの方が
ご都合がよろしい、という西欧的ジョークがあるように
父親不在の方が豊かになれる日本独特の社会的ご都合があるのかも知れませんね。
亭主元気で留守がイイ、なんてもっともアンモラルなジョークだと思います。
僕はその辺の事情にはとても懐疑的で
あるヒェラルキーが富むには父親不在のキャンペーンを張ればよい、
というブラックジョーク的社会の香り。
哲学者がサラリーをもらうためには真理は見えない方がご都合がヨロシイし
脳髄が脳髄をまさぐるような事がスマートな文化だと勘違いしている
「豊かさ」からはそろそろオサラバしたいような気分です。
hiroshipsさんありがとうございます。
返信削除hiroshipsさんのおっしゃられるように遊牧民族か農耕民族かという視点ももちろん関係ありそうですが
僕は以前「父」の不在(←クリックでリンク先に飛びます)という文章のなかで
日本における父の不在は日本語という特殊な言語と関係があるのではないかと考察したことがあります。
最近話題になっている滋賀県のいじめの問題や韓国や中国との関係にしても、
今日本人の中にフラストレーションとして溜まっているのが、日本全体を覆っている「女子供文化」というか、
すべていい子。辛抱強く話しあえばいつか分かり合える。競争はだめ。とにかくきれいが大事。どんなに悪いことをしても許してあげるべきだ
という風潮に対する(男性陣からの)マグマのような、押し殺された腹立ちを感じています。
父的システムが持っている、厳格に区別し評価し、裁く。分断し断罪する。厳然として罰を下すという特性を、そのネガティブな面を毛嫌いするあまり
角を矯めて牛を殺すことになっているんじゃないか。
日本は先の大戦以来全精力を上げてこの父的システムを排除してきたツケが回ってきたのかも。
でも戦前のようなファシズム的父性を復活させれば父性の持つネガティブな面が暴走する可能性があるし。
どんなことも良い面と悪い面があるわけで、要は時代の要求に応じてバランスをとればいいんだろうけど、やりすぎてしまう。
動と反動。どちらかしかないのか。
ユーモアを持って父的なものと母的なものを適宜使い分ける。
脳が持っている「なんにしても行き過ぎる」という特性を、僕たち自身が知っておくべきじゃないかと思います。
でもなんとなく、もうすぐ日本に父的システムがゴジラのように復活するような気がする。
我慢が永かったぶん、大暴れしなけりゃいいんだけど。
僕はちょっとだけジブリフリークなので『折り返し点/宮崎駿 著』が手元にあります。これによると「崖の上のポニョ」における海は女性原理を、陸は男性原理をあらわしているようです。
返信削除ポニョは純粋な女性性の代表。といっても幼児なので上手く成長できるかどうかは出会う男性にかかっている。
その母、グランマンマーレはポニョが海で見事に成長した時の姿。全ての生命の味方。
父フジモトは、男でありながら陸を捨てた弱い父親の代表であり、現代の父親像のカリカチュアでもあるが、宗介が負う重荷を一番理解する人物。
一方で宗介は神の領域にいてまだこの世の男には成りきれない最後の年齢5歳の男児。
宗介の課題は、ポニョを受け入れ、好きになり、守ると誓った約束を守りきること。
人の心のうつろい易さを知っている現代にあって、宗介はリサやフジモトにも心を配りながら、わがままなポニョを全部受け入れ、約束を守ることの出来る秀才。(だから主人公の資格がある)
宗介の心の強さで世界は静まり新しいバランスがとられるが、これは女性性が勝ったわけでも男性性が勝ったわけでもない。
不安定で先の思いやられる状態で映画は終わるが、それは21世紀以降の人類の運命であって、一遍の映画で結着をつけるべき課題ではない。
以上、宮崎駿氏が音楽監督久石譲氏に宛てたメモからの要約です。
話は変わりますが、吾郎氏初監督の「ゲド戦記」の主人公は父親殺しをしているんですね。
あの映画の宣伝コピーにも「父さえいなければ、生きられると思った。」というものがあります。
shinさんhiroshipsさんとの父論談義を介して、もう一度見直すと面白く見れるのかな、、、、
ただ、この父殺しの脚本はどうも鈴木氏の発案らしいので、若干プロレス臭さを感じたりもします。
wataponzさんありがとうございます。
返信削除そうですか。宮崎監督自身がそうおっしゃってたんですね。
うーん、僕の読みは勘違いだったかな(笑)。
吾郎氏とアニメーションを宗介とポニョに見立てたかは分かりません。
返信削除でも日本における「父」の不在や「父探し」ははっきり描かれていると思いますよ。
前出の久石氏宛のメモの中にも
男性原理である陸の港町は衰退し、男達はもう尊敬されていない。
現代の男はフジモトのようなインテリになるか、リサの夫耕一のように逃げ出してしまうのが簡単な生き方だ。というような記述があります。
そういう世界感の中で、次代を担う真っ新な男宗介のはじめの一歩を描く映画ですから
宮崎監督の考える現代のダンディズムが宗介に体現されているものと僕は思っています。
なるほど。
返信削除