2012/11/17
子供は自由か?
子供には無限の可能性があるので、その創造性の邪魔をしないように十分な環境を整えてあげるべきだという考えがある。子供には無限の想像力があるのに大人になるにつれて想像力はどんどん貧弱になっていくと思っている人もいる。
無限の想像力とはなんだろう。
動物と会話ができたり酸素なしで海底や宇宙空間を歩いたり未来と過去を行き来したりすることを想像する力のことだろうか。
子供の発育過程で描く絵には一定の発達パターンがあるようだ。
それと同様に子供の思考パターンというのはわずかな人間的歴史、乏しい感情経験、獰猛な生理的欲求などによって拙い固定観念やぎこちない思考の道筋、数少ないパターン的思い込みなどといった、むしろ固着的といってもよいほどの不自由な状態に留まっている。
数えきれないほどの不能から徐々に制限が解除されて出来ることが増えていく。
人間の脳というのは他者と関わりを持たないままだと非常に固定的な道筋の、単純な思考パターンに留まる傾向があって、ひとと話をしたり、本を読んだりすることで新しい思考の運動パターンを獲得していく。
例えば数学など、こんなものなんの役に立つのか、社会に出て一度も使わないものをなぜ学ぶ必要があるのかと問う人がいるが、何の役に立つのかわからないということそのことが、それを学ぶ唯一にして最大の理由なのであって、そんなことを言っても一向に学ぶモチベーションが上がらないから「つべこべ言わずに勉強しろ」という役割を大人は担っている。
つまりひとは生得的に自らに課せられた思考の不自由さから自由になるために学習ということをする。
だがここで与えられた知識や思考形式を脳の倉庫にただ貯めていくだけでは試験をクリアーしていくための道具にすぎないわけで、自転車を与えられた少年が自由に自転車に乗りこなせて片手離しや両手離しやウィリーが出来るようになるためには自転車と遊ぶ必要があるように、その知識や思考形式を道具として使えるようになるためにはそういった知識と遊ぶ必要がある。
その、知識や思考パターンと遊ぶというのが実は「考える」という行為のことである。
それでこの、知識や新しい思考パターンを外から入手するという行為と、その思考パターンと遊ぶという行為は、自転車の両輪のようにいずれもそればかりに偏っては良くないと。そこで論語が出てくる。
子曰く、学びて思わざれば則ち罔し(くらし)、思いて学ばざれば則ち殆し(あやうし)。
「学びて」の「学」は伝授が行われる場所を意味する。先生から知恵を授かること。ならう、まねるという漢字と同系統。
「思いて」の「思」は田+心。田は大泉門、つまり脳のこと。考えること。心でいろいろと思い巡らすこと。
「罔し」の「罔」はモノの上にかぶせて見えなくするための網のことで本体が見えないこと。
「殆し」の「殆」は死+台で、台は行為を意味する。これ以上動くと死ぬ、すなわちもう少しで良くないことが起こる危険な状態のこと。
すなわち学びて思わざれば則ち罔しとはいかに勉強熱心でも考えるということをしない人はいつまでたっても物事の本質が見えてこないということで、思いて学ばざれば則ち殆しとは勉強なんか無意味だと言って学ばないひとはえてして妄信的で危険であるということを言っている。
雨で写真を撮りに行けないので以前から気になっていた孔子の言葉で遊んでみました。
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こんばんは。はじめましてhishiayameと申します。
返信削除いつも素敵な写真と文章を拝見させて頂いています。
「うわ〜この写真」とか「なるほど」とか
「えっどういう事?」と、何度か文章を読み返してみたりとか
更新されない時は
次はいつかな〜っと
時々『SHINS BLOG 304』をクリックしみたり
何時書き込ませて頂こうかと思いつつ今日に至りました^^;
この写真と文章も
小学生の子供のいる私にとって
とてもとても興味深く考えさせられました。
次の投稿「作者の不在」も
しっかり写真と自分を見つめ直す機会を頂けました。
ありがとうございます。
これからも楽しみにしています!
リンクいただいてよろしいでしょうか?
宜しくお願いします。
hishiayameさんありがとうございます。
返信削除いやーうれしいです。
写真は全くのひとりよがりだし、
一体こんな文章を誰か楽しみにしてくれてるんだろうかと思いながらも続けています(笑)。
これからもよろしくお願い致します。
リンクはご自由にどうぞ^^。
あ、ブログ拝見しました。僕にはない視点で撮られた写真がすてきです。
僕の方もちょくちょく遊びに行きますのでよろしく^^。