2017/08/30

昔カメラという道具があった

weed

愛読しているSteve Huff氏の昨日のブログ記事
"Why I prefer a real camera to a smartphone, and why you should as well."というタイトルで、つまり若者はみんなスマートフォンで写真を撮ってるけど、もっとちゃんとしたカメラで撮る喜びを知ってほしいという内容で、その理由の一つとして彼はスマホでは撮れないと思われる作例をいくつかあげている。
僕も大筋彼の意見に賛成だが、しかし技術が進めば早晩こういった写真もスマホで撮れるようになるだろうし、じゃあカメラの立つ瀬はどこにあるかとなると甚だ心もとない気もする。男性はシャッターを押したいから写真を撮るけれども、女性はそんな無駄なことはしない。女性はコミュニケーションのために写真を撮るのであって、コミュニケーションに必須の携帯電話で写真が撮れればカメラなんかいらないのだ。

でもその一方で「やっぱりカメラが好き」という人たちもいて、そういう人たちは何を撮るか以前にカメラが好きで、意味もなくシャッターを押したりファインダーを覗いたりする。
一般的に男性は小さい頃からクルマや電車や銃や戦車や船や飛行機といったものに強い興味をもつけれども、それらはみな自分の外に向かって力を及ぼしたり自分の機能を拡充するといった働きを持っていて、視覚の延長線としてのカメラもその一端を担っている。男性はそういった道具が好きなのだ。そして道具にはその使用目的に応じた適切なサイズというものがあって、まさにそこにカメラという物体があらわれる。
さらにまたカメラには別世界に入るための道具としての魅力がある。
僕の場合はやはりファインダーが重要で、千と千尋の神隠しにおけるトンネルのように、ある行為に没入するためには、あるいはまた別の世界に入るためには、主体は外界から遮断されなければならない。それが、ファインダーを通して覗き込むという行為なのだ。

機能という観点だけではカメラはスマホに対する優位性を永く保てないだろう。
カメラの生き残る道は険しいが、さわる喜びとしての優位性と、覗き込んで別世界に入るファインダーの効果はスマホでは得られないものだと思う。









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