2019/08/03

感動について

a face
 
 
赤瀬川原平さんが小林秀雄の講演テープがとても面白かったと何かに書いていて、僕も小林秀雄は苦手だったが原平さんがそう言うならと彼の講演集のCDを買ってiPodに入れて車の中で聴いている。

文章で読むとすごく難しい彼の話も、彼の地声で聴いてみるとちょっとべらんめぇ調の、まるで志ん生の落語を聴いているような彼の話はとても面白く、彼と一緒に話題の中心をぐるぐる旋回していると僕の頭にもいろんな、まさに「考えるヒント」が浮かび上がってきて飽きない。

そのなかで「宣長に辿り着くまで」(第3巻本居宣長 CD-2 No.6)を聴いていて考えたことを書いてみたい。
小林秀雄がフランス文学から近代日本文学を経て、人生の秋ともいうべき時期(当時76歳)に至って本居宣長を研究しようと思ったのはなぜなのかという一女学生の質問に、自分としては計画性なんてものはまるっきりなくて、何かに感動してその感動の正体を明らかにしようと次々に追いかけているうちに宣長に出会ったのだという。
 
 以下彼の語りの一部を筆記
小林「あの~、非常に簡単な事でしてね。あの~自分の一生ってものをね、こう、振り返ってみますとね、僕はま、だいたい計画が立たない男ですね。全然計画を立てて何かしたってことがまずないんです僕は。その場その場に解決していったものの積み重なりが、いつの間にかそんなふうに向いてっちゃったんですよ僕は。
そういうふうにいつでも僕はね、まずなんかひとつの感動とかね、ある直覚とかね、そんなものがいつも先にあるんです。[中略]
初めね、漠然としてるけれども非常に明瞭な感動があるんです。これ、なんとかね、もっとこう、明瞭化しなきゃいけないって思うくらい、ま、とにかく初めにあるんです、そういう感動が。[中略]
そういうふうなものがこう、次次々と、こう、そういうふうなものに出会ってきたんですね、僕は。だから計画ないですね僕は。実にないんです。」
 
これに対し件の女学生が「計画がないにしても一筋通っている道ってものが先生の色彩ではないんでしょうか?」と尋ねる。
 
小林「それね、難しい問題でしてね、僕もよく考えるんですけどもね、どうもその、それがその、いきあたりばったりってのが人生ってもんじゃないんですかな。ぼくはどうもそんなふうに思うんです。
ただね、あの、計画的な学問てありますよ、例えばあの、ずーっと一生こういうふうなあれをやっていくってひとは、そりゃたくさんありますけどね、僕みたいな生き方っていうもののほうがあの、普通なんじゃないですかね。どうもそんなふうに思いますね」
[中略]
「だけどたしかに僕は自分しか出してないですよね。たしかにそうなんです。だけどいつでも、だから僕は感動から始めたってことは、感動ってのはね、いつでも統一したもんです。分裂した感動なんてありませんよ。感動してる時にはね、世界はなくなるもんです。感動したときにはいつも自分自身になるもんです。どんな馬鹿でも。これはあの、天与の知恵だね。これは天がそういうふうに決めたんでしょう。人間てのはそういう生まれつきのもんですよ。
感動しなきゃ人間はいつでも分裂していますね。だけど感動しているときには世界はなくなって、世界がなくなるってことは自分自身になるってことです。
自分自身になるときには必ずそれは一つのパーフェクトなもんです。完全なもんです。馬鹿は馬鹿なりに、利口は利口なりに、その人なりに完全なもんです。つまり感動ってものは個性ってもんです。だから、僕の書くものは、いつでも感動から始めたから僕ってのはいるんでしょうおそらく、自然と。その感動を僕は書こうとして、自分を語ろうとしたんじゃないです。感動はどこかからやってきたんです。それを語ったからね、そういうふうになったんで、もうそれは普通のことじゃないだろうかと思う。だからご質問のように、こういうふうになぜなったかっていう筋道は、辿ることはできないんだね」
 
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さて、ここで彼は自分のやってきた仕事のもとになっている「感動」ということについて語っているのだが、そのなかで僕は彼の言葉にとても関心を持った。
それでその箇所を以下に抜き出してみる。
 
「感動ってのはね、いつでも統一したもんです。分裂した感動なんてありませんよ。感動してる時にはね、世界はなくなるもんです。感動したときにはいつも自分自身になるもんです」
「感動しなきゃ人間はいつでも分裂していますね。だけど感動しているときには世界はなくなって、世界がなくなるってことは自分自身になるってことです。自分自身になるときには必ずそれは一つのパーフェクトなもんです。完全なもんです」
 
彼が何を言わんとしているかわかるだろうか?
僕にはわからなかった。しかしわからないなりにここでは何か非常に重要なことが語られているということはわかった。
我々は、その意味がわからなくても重要なことが語られていることはわかる。それで我々はその意味を、話者が何を言わんとしているかを繰り返し考える。
 
彼は言う。
「感動していないとき、我々は分裂している」
「感動しているとき、我々は統一しており、自分自身になっていて、そのとき世界はなくなりパーフェクトな状態にある」
 
僕はぼんやりその箇所を反芻しているうちにあるシェーマ(絵)が浮かんで、それが彼の言わんとすることの理解を助けてくれた。
 

我々の体の各部、脳や心の浅い領域や深い領域や情動や身体などは外界からの刺激や情報を受けてそれぞれがそれぞれの場所でバラバラに勝手に振動している↑
 
しかし何か我々にとって非常に重要な、もっと生命や人生や運命の根源に関わる情報は、我々の体の各部を繋ぐもっと深い場所を揺らすことがある。


その振動は体の深部から体全部に伝わって、我々の全存在を同じ周波数で深く激しく揺らすのだ。我々の全身が、浅いところから深いところまで同期する。その時、我々の全存在は振動そのものとなり、世界と共鳴する。そして実にそれが我々が感動と呼んでいるものなのだ。
 
「感動していないとき、我々は分裂している」、「感動しているとき、我々は統一しており、自分自身になっていて、そのとき世界はなくなりパーフェクトな状態にある」とはそういうことなのだろう。
そしてさらに言えば我々が他者に感動を伝えようとするとき、伝わっているのは話の内容(コンテンツ)ではなくむしろ振動であり、伝わる力の大きさは震源の深さと関係しているように思う。
 
 





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