2007/09/07

ポーの大渦

小学校の時に学研の科学と学習の、「学習」の付録の短編集に載っていたエドガー・ポーの短編「メールシュトレームの大渦」(当時の付録に載っていたタイトルはモスケーシュトロームの大渦」だったと思う)は、ノルウェー沖の大渦に巻き込まれた漁師兄弟の話である。

二人は他の漁師たちが恐れて近づこうとしない大渦の近くで漁をするのを得意としていた。その場所はいつも豊漁を約束されていたからである。だがその日二人は潮の時間を間違えて大渦に巻き込まれてしまう。
漁船は巨大な大渦の中をゆっくりと回転しながら、徐々に渦の中心部、死の奈落に近づいていく。はるか下方の渦の中心部からは霧が立ち登り、そこから全てを粉々に破壊しつくしてしまう渦の獰猛な叫び声が耳を聾するように轟いている。
兄は、いずれ船ごと自分を飲み込んでしまう大渦の死の恐怖で気が狂ってしまい、じっと渦を見つめたまま動かない。弟も茫然と渦の中を眺めていた。
やがて弟は、大渦の斜面を回転している自分の船以外の材木や芥を見ているうちに、物体の形によって渦への落下速度が異なることに気が付いた。そして円筒形をした物体の落下速度がもっとも遅いことに気が付き、船にあった樽にロープで自分をくくりつけて船から飛び降りるのである。
何時間経過しただろう。徐々に樽につかまった彼と船の距離は開いて行き、遠く下方に見えていた船は、兄もろとも渦の中心に吸い込まれてしまう。
やがて月が昇り、次第に渦の中心が上昇し、ついに渦は消えて、彼は仲間の漁船に救助される。

兄は死に、弟は生き残った。何が二人を分けたのか。
兄は、「死」という脳が作り出した将来のバーチャルイメージに捕らえられたまま死んでしまい、弟は渦の斜面のリアルを足場に生還した。

脳は人を殺す。
脳はみずから作ったバーチャルで人を殺すのである。

臨済録

養老孟司先生と内田樹先生の対談集「逆立ち日本論」を読み終える。
養老先生も内田先生も、二人とも遠心力系。ぶんぶん振り回す。痛快だ。
僕は読書中に気になった所や面白いページの耳を折る習慣があるが、この本で耳を折ったのは10カ所。いずれもオツムの肥やしになりそうなところで、やがて折った耳の数カ所からは芽が出るだろう。
その中で一番大きな樹になりそうなところが第八章の養老先生の言葉。
「随処に主となる。これは『臨済録』で臨済禅僧が伝えた言葉です。随処(ずいしょ)に主と作(な)れば、立処(りっしょ)皆真なり。」

AからBを目指して移動するとき、移動中に人は何を考えるだろう。
Bを真の目的と考えると、移動中は仮の人生である。
脳の中ではまだ到着してもいないBというバーチャルなイメージがリアルになり、逆にリアルである今現在の移動時間はバーチャルになる。
脳の中ではリアルとバーチャルが逆転しているのだ。

「丁寧」とは、AとBの間を限りなく細分化して、その一つ一つの枡に自分を入れていくことでリアルを取り戻す試みである。それを臨済禅僧はこのように表現された。

随処に主と作れば、立処皆真なり。

早速アマゾンで「臨済録」を注文する。

2007/09/06

師匠の言葉は「技」である。

内田樹先生の著作の特殊性は、求心性ではなく、遠心性にあることを以前述べた。
僕はもう内田先生の著作を25冊も読んだ。最初の何冊かを読んだとき、読後に僕の心に驚きと感動以外には何も残っていないことが不思議だった。僕がこれまで耽溺してきた作家は、読み終わったあとに確実にその著者の強いテイストが残って、僕は著者に憑依されたようになるのだが、内田先生の本はそれがない。その理由が今日やっとわかった。それはマジックショーの縄抜けの妙技なのだ。非常に鮮やかで、驚きと感嘆があるが、情緒に訴えるものではない。子供がお父さんの手品を見て、「もう一回やって!」と何度もせがむように、僕は何度でも師匠の本を読むし、新刊が出るとすぐ買ってしまう。

それは「技」なのだ。師匠の言葉は「技」である。僕はその技の鮮やかさを何度でも見たいのだ。もしそれが「情緒」であったら、読んだあとに何かが残る。もしそれが「情報」であったら、もう読まない。情報は、手に入ったら終わりなのだ。僕が内田先生の本を何度も読み、25冊も買ってしまったのは、それが「技」だからだ。僕はそれを習得したい。技は日参しなければ手に入らない。技は何度も道場に通って練習しなければ自分のものにならないのだ。だから僕は道場に通うように師匠の本を何冊でも読む。それは師匠の乱取りを見ているのだ。師匠は道場の中央に立って、かかってくる問題を順番に一つずつあざやかに投げていく。僕はそれを感嘆して見ている。最初の頃は何が起きたのかわからない。合気道の空気投げのようだ。やがて師匠の動きが見えてくる。なるほど、確かにこうすれば相手が飛んでいく。でもその師匠の動きは事後的に確認できるが、自分にも同じ投げが出来るとは思えない。なぜそんな投げが出来るのかが、わからない。でも何度も通っているうちに、どこからこの投げが生まれてくるかが見えてくる。最近ようやく、見えてきたのです。

2007/09/05

お風呂に持ってはいるもの

子供の頃に始めて飲んだ紅茶は、すごく紅茶の味がした。
それを僕は紅茶を飲むたびに思い出す。鮮烈な赤、フルーティーな香りと渋み。
今も好きで紅茶を飲むけれど、始めて飲んだ紅茶の味はもう戻ってこない。
今紅茶を飲むのは、あのときの体験を思い出したくて飲んでいるのかもしれない。
それは紅茶に限らず、全て僕達が普段口にするものに共通する落胆かもしれない。それぞれの食べ物や飲み物に、始めて口にしたときの鮮烈な原体験が刻印されている。僕達は今もそれを追体験したくて淡い期待とともに食べ物を口するけれど、その期待がかなえられることはすごく少ない。

でも例外が二つある。
みなさんはお風呂に何を持って入りますか?
僕は気楽に読める本と一緒に、よく食べ物を持ってお風呂に入ります。
夏ならおかき、冬ならミカン。
お風呂で食べる食べ物のおいしさは特別です。おかきなら、醤油の香りがすごくするし、みかんはまるで始めて食べるように味の輪郭が鮮明です。
たぶんね、お風呂の湿度が関係していると思う。年齢とともに嗅覚も味覚も落ちるけれど、湿度の高いところでは知覚神経の末端が潤って刺激を伝達しやすくなっているんじゃないだろうか。
まだ試したことはないけれど、紅茶もお風呂で飲むと、もっとおいしいんじゃないかな。
もう一つの例外は空腹です。
僕は大学時代にあることを心に決めて三日間水も食べ物も全く口にしなかったことがある。そしてそのことをクラスや友人の誰にも黙っていた。最後の三日目に、なんと午前の体育の授業で短距離のマラソンがあった。死ぬかと思った。お昼になって学食でランチを食べたとき、最初に口にしたキューリの味は今も覚えている。
それはこの世で始めて口にするキューリの味でした。

僕達は普段三日間も断食できないけど、お風呂でならもっと簡単に原体験を思い出すことができる。楽しい本を読みながら、しみじみとおかきを味わう。

みなさんはお風呂に何を持って入りますか?


20070905, originally uploaded by slowhand7530.

2007/09/02

デッキチェアー

5~6年前ホームセンターで安い値段で買ったデッキチェアー。
これがすごく気持ちがいい。お風呂上がりに扇風機に吹かれながらまどろんだり、休日に本を読みながらうたた寝をしたりするのに欠かせない相棒でした。
ところが先日その真っ赤なキャンバス地が破れてしまった(そう、布は真っ赤な帆布だったのです)。
大ショック。
僕にはもうデッキチェアーのない生活は考えられなかったので、ネットで探してみましたが一般的な帆布は売っているがデッキチェアー用の帆布という物は売っていない。そもそももう夏が終わりなのでデッキチェアー自体が売っていない。
それで仕方なく今日ホームセンターへ行ったら、中国製の綿100%の暖簾が売っていた。綿だから弱いけど、これを二つ折りにするとデッキチェアーの幅にぴったり!買って帰って娘にミシンで仕上げてもらいました。デザインも気に入っています。娘に感謝!


deckchair, originally uploaded by slowhand7530.

2007/09/01

September sky


September sky, originally uploaded by slowhand7530.

my cup

15年前にインディアナ大学に吸引細胞診の勉強に行ったときに買ったマグカップ。
最近本当によくコーヒーを飲みます。



my cup, originally uploaded by slowhand7530.

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