内田樹先生の著作の特殊性は、求心性ではなく、遠心性にあることを以前述べた。
僕はもう内田先生の著作を25冊も読んだ。最初の何冊かを読んだとき、読後に僕の心に驚きと感動以外には何も残っていないことが不思議だった。僕がこれまで耽溺してきた作家は、読み終わったあとに確実にその著者の強いテイストが残って、僕は著者に憑依されたようになるのだが、内田先生の本はそれがない。その理由が今日やっとわかった。それはマジックショーの縄抜けの妙技なのだ。非常に鮮やかで、驚きと感嘆があるが、情緒に訴えるものではない。子供がお父さんの手品を見て、「もう一回やって!」と何度もせがむように、僕は何度でも師匠の本を読むし、新刊が出るとすぐ買ってしまう。
それは「技」なのだ。師匠の言葉は「技」である。僕はその技の鮮やかさを何度でも見たいのだ。もしそれが「情緒」であったら、読んだあとに何かが残る。もしそれが「情報」であったら、もう読まない。情報は、手に入ったら終わりなのだ。僕が内田先生の本を何度も読み、25冊も買ってしまったのは、それが「技」だからだ。僕はそれを習得したい。技は日参しなければ手に入らない。技は何度も道場に通って練習しなければ自分のものにならないのだ。だから僕は道場に通うように師匠の本を何冊でも読む。それは師匠の乱取りを見ているのだ。師匠は道場の中央に立って、かかってくる問題を順番に一つずつあざやかに投げていく。僕はそれを感嘆して見ている。最初の頃は何が起きたのかわからない。合気道の空気投げのようだ。やがて師匠の動きが見えてくる。なるほど、確かにこうすれば相手が飛んでいく。でもその師匠の動きは事後的に確認できるが、自分にも同じ投げが出来るとは思えない。なぜそんな投げが出来るのかが、わからない。でも何度も通っているうちに、どこからこの投げが生まれてくるかが見えてくる。最近ようやく、見えてきたのです。
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