悲しい過去、不幸な過去、憎むべき過去という失われた過去の呪いによって、私たちはしばしば今を幸せに生きることができない。同じように、悲しい未来、不幸な未来、不本意な未来というまだ到来していない未来の幻影によって、私たちはしばしば今を充分に生きることができない。
過去は私たちの記憶の中にしか存在せず、私たちはみな明日にはどうなるかわからないという点において、過去も未来も幻影であるにもかかわらず、私たちはしばしば幻影に現実をむしばまれて、「いま」を貧しいものにしてしまう。過去貧乏(かこびんぼう)のせいで今貧乏(いまびんぼう)、未来貧乏(みらいびんぼう)のせいで今貧乏(いまびんぼう)になってしまう。
あと一週間しか生きられない人にとっても、生まれて一週間で死んでいく人にとっても、私たちには「今」しか与えられていないという点で平等である。
明日死ぬ人も、50年後に死ぬ人も、今を丁寧に生きるしかない点で平等である。
「私たちには今しか与えられていない」という平等さにおいてしか、私たちは明日死んでいく人を慰め、時には叱ることが出来ないのではないだろうか。
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