僕は大学生の頃下宿生活をしていて、お風呂はいつも銭湯でした。
皆さんもよくご存じかと思いますが、男湯と女湯の間には高い塀があって向こうの様子は見ることは出来ません。でも向こうの音は意外と良く聞こえるのです。
女湯はとにかく賑やかです。近所の噂やテレビの話題、久しぶりに会った人との挨拶など、明るく元気にハツラツと、さんざめく笑い声は銭湯の高い天井に反射して、まるで球場の歓声のように男湯に響いてきます。
男湯はどうでしょう。これがまた驚くほど静かなんですね。聞こえるのはシャワーの音と、お湯を浴びるザーッという音ばかり。たまに聞こえても咳払い。ほとんど会話らしいものはありません。
当時僕はフェミニズム理論を少しだけかじっていたので、女性というジェンダーは社会的な創造物であり、彼女たちは男社会から「女性」という役割を押しつけられているのかもしれないとぼんやりと考えていました。でも僕がこの銭湯の体験を通じて感じたことは、男と女というのは、単に社会的な役割ではなく、そもそも人種が違うんだということでした。その後僕も結婚し、妻と娘との暮らしを経験しましたが、女性は違う人種だという実感はこの家庭生活でさらに強まりました。
個人の体験というものは、あくまで個人的な体験であり、もちろん普遍的な真理ではありません。例外もいっぱいあります。でも私たちが、これは真実だと深く感じていることというのは、理論的に導かれたものではなく、結局その人が実際に経験したささやかな実感がすべてなのかもしれません。
さて話は変わりますが、やはり僕が学生の頃聞いていたある深夜放送で、ことばの定義をリスナーから募集するというコーナーがありました。
その週のお題は「絶体絶命」でした。パーソナリティーが読み上げる「私にとっての絶体絶命」は、いずれもたいへん面白かったですが、あるリスナーの投書はこんな内容でした。
「銭湯で湯船にもぐってみたら、女湯へ通じる穴があったので、これはラッキーと息を止めたまま潜ってむこうへくぐり抜けようとしたが、身体の真ん中あたりでつっかえて進むことも引き返すことも出来なくなった状態のこと。」
絶体絶命ですね。
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