2007/08/01

雨乞い師

 大へんな旱魁があった。
何ヵ月もの間一滴の雨も降らず状況は深刻だった。
カトリック教徒たちは行列をし、プロテスタントたちはお祈りをし、中国人は線香をたき、銃を撃って旱魁を起こしているデモンたちを驚かせたが何の効果もなかった。最後にその中国人が言った。
「雨乞い師を呼んで来よう」
そこで別な地域からひからびた老人が呼ばれてきた。
彼はどこか一軒の静かな小さい家を貸してくれとだけ頼み、三日の間その家の中に閉じこもってしまった。
四日目になると雲が集まってきて大へんな吹雪になった。雪など降るような季節ではなかった。それも非常に大量の雪だったのである。
町中は、すばらしい雨乞い師の噂でもちきりであった。
そこでリヒアルト・ヴィルヘルムは出かけて行ってその老人に会い、どんなことをしたのかとたずねた。彼はまったくヨーロッパ風にこう聞いたのである。
「彼らはあなたのことを雨乞い師とよんでいる。あなたがどのようにして雪を降らせたのか、教えていただけますか?」
するとその小柄な中国人は言った。「私は雪を降らせたりはしません。私は関係ありません」
「ではこの三日間あなたは何をしていたのです?」
「ああ、そのことなら説明できます。私は別の地方からここへやってきたのですが、そこでは万事が秩序立っていたのです。ところがここのひとたちは秩序から外れていて、天の命じている通りになっていないのですよ。つまりこの地域全体がタオの中にないというわけです。ですから私も秩序の乱れた地域に居るわけで、そのために私まで物事の自然な秩序の中に居ないという状態になってしまったわけです。そこで私は三日間、私がタオに帰って、自然に雨がやってくるまで待っていなくてはならなかったというわけなんです」
『タオ心理学 ジーン・シノダ・ボーレン著 春秋社』
 
不思議な話である。
実際に雨が降ったのも不思議だが、更に不思議なのは雨乞い師には自分が雨を降らせたという自覚がないことだ。
彼は雨乞い師として呼ばれたのに雨が降ったことに自分は関係がないというのだ。
実際に彼がやったのは彼自身がタオ、すなわち天の声と一体化するのを待つということだった。
天の声と一体化するためには天の声を聞く必要がある。そこで彼は静かな小さな家を借りて、そこに三日間閉じこもった。
彼が天の声と一体化したときに雨が降った。結果として。そしてそれは彼にとってあたりまえのことだった。


赤ん坊がお腹をすかして泣いている
母親が赤ん坊にお乳をあげる
赤ん坊が泣き止む
あるひとが母親に尋ねる
あなたはどうやって赤ん坊を泣きやめさせたのですか
母親は答える
いいえ、私は泣きやめさせたりはしません
この子にお乳をあげたのです
 
 
 
 
このお話の重要なポイントはいくつかあるが、その一つが雨乞い師の「私は雪を降らせたりはしません。私は関係ありません」という発言である。
再び『弓と禅』を引用する。

そこである日私は師範に尋ねた。
「いったい射というのはどうして放されることができましょうか、もし私がしなければ」
「それが射るのです」と彼は答えた。
「そのことは今までに既に二、三回承りました。ですから問い方を変えねばなりません。いったい私がどうして自分を忘れ、放れを待つことができましょうか。もしも私がもはや決してそこにあってはならないならば。」
「それが満を持しているのです」
「ではこのそれとは誰ですか。なんですか。」

それからのちのある日、ヘリゲルの一射のあと師範はお辞儀をしてこう告げる。

「今し方それが射ました」 

「それはあなたに関係があってはならぬものです。また私はあなたに向かってお辞儀したのでもありません、というのはあなたはこの射には全く責任がないからです。」

雨乞い師と弓の師範はこうして奇しくも同じ言葉を述べる。









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