以前のブログで取り上げたDoctor's Ruleの一つに、
When you are listening to a patient, do not do anything else. Just listen.
(拙訳:患者の話を聴きながらほかのことをしてはならない。ただ聴きなさい)というのがありました。
昨日聴診器をあててもらった患者さんの喜びについてお話ししましたが
聴診器をあてるという行為が巧まずともJust listenという好ましい態度をもたらすことに気が付きました。
イヤーチップを耳に当てるとその途端から世界は無音になる。
そして聴診器が患者の身体に触れた時既に僕は患者の身体という森の中にいる。
人は聴診器を使いながらほかのことが出来ないという点がミソなのです。
その時我々は嫌も応もなく、全的に患者に関与せざるを得ない。
全的に関与するというのは、マックス・ピカート的に言えば「時間を与える」ということです。
愛とは立ち止まることだ。
ある一人の前に、しばし立ち止まることなく、時間を使うことなしに愛を交わすことはできない。
愛情のある人間は他の人々やもろもろの事物の前に立ち止まる.
そしてそれらの人々や事物に時間を与える。
それがとりもなおさず愛なのだ。
くりかえしていうが、時間と愛とは相い依って一体をなすのだ。
マックス ピカート「騒音とアトム化の世界」佐野利勝訳(1971)みすず書房
愛というとわかりにくくなるけれども、愛という言葉を全的関与と読み直すことが許されるなら
私の時間を相手のためだけに使うということが愛なのでしょう。
三年間も通って一度も聴診器をあててもらわなかった患者が、たった一度僕が聴診器をあてただけで満腔の笑顔を示したのは、おそらく僕が僕の時間を彼のためだけに使ったから。
そしておそらく全的に関与するというのは人との関わりの中だけで意味を持つのではない。
僕たちが行う全ての行為において、自分の全存在を丸のまま行為の中に放擲しきるという態度が
結局は僕らの救いなのだろう。
時間と愛についてのお話、納得です。
返信削除子どもを放置して死なせてしまった母親のニュースを、ちょっと思い出しました。
(これは、母親だけの問題ではないのかもしれませんが)
最近、世の中に愛が足りない気がします。
>おそらく僕が僕の時間を彼のためだけに使ったから。
返信削除同感です。
先の認知症の男性に対しても、最初は私も真面目に「診察」してるんですが、
そのうち雑談や「モーしてください、こうです、こう」と私が四つん這いになると
「こ、こう?」と周りの利用者やスタッフが呆れ顔でも笑いをこらえていても
ふたりだけは真顔で真剣に遊んでいることも多いです。
でも結果男性は落ち着くんです。
他の認知の女性に「動かない人」がいますがこれもまた「彼女の世界に入る」事によって言葉だけで動いてくれます。
それが分からないスタッフが彼女を引っ張ったり押したりして泣かせてしまうと私は注意します。
彼女の肉体に触れずに、心に触れてあげるよう助言します。
本当に不思議な世界です。
soltylifeさんありがとうございます。
返信削除愛というのはとても難しい問題で
具体的に何をすることが愛なのかわからなかった時に
マックス・ピカートの言葉が僕にとって大きなヒントになりました。
あの事件は僕も見て複雑な気持ちになりました。
母親はブログでは理想的な母親だったそうです。
理想と現実とのギャップが大きくなった時に
表現するものは自分が書いたことに裏切られることがあります。
僕も人ごととは思えません。
とかげさんありがとうございます。
返信削除認知症の人の心に触れることの難しさは僕も同業者なのでよくわかります。
僕は会話出来る人の心に入ることで精いっぱいで
まだとても認知症の人の心に入ることは出来ません。
とかげさんの患者さんとの接し方はとても参考になります。冗談じゃなく。
とかげさんが全身で接しているのがよくわかるエピソードです。
ありがとう。