朝日の中で信号待ちのバイクの男の黒い背中に
フロントガラスのくもりと埃が重なって見える。
僕は車の中からそれを見ている。
到底写真に撮る価値のない景色。
僕は頭の位置をずらしてみる。
フロントガラスの汚れが男の背中からずれる。
この滑らかな動きをCGで再現しようとしたらプログラムしなければならないだろう。
だが現実は何の逡巡もなく思考の入る余地がない。意味より速く現実は動く。
フロントガラスの曇りにどんどん近づいて
分子が見えるまで猛烈にズームインする。
汚れの分子もガラスの分子も朝日の中でキラキラ輝き、すべては朝日の中で揺らぐ分子だけになる。
もはやここに「よごれ」は存在しない。
よごれの消失とともに写真に撮るに値するかしないかという意味も遙か彼方に消え去る。
僕をうんざりさせている意味や価値の世界は
水の上のパラフィンのように薄く漂っている。
このパラフィンのように薄い世界の上に、
人の考え出す意味や価値がたゆたっている。
死さえもが半紙に書かれた文字のようにこの薄いパラフィンの上で静かに揺らいでいる。
僕たちはこの意味と価値のパラフィンの中だけで暮らしている。
そして実はこの薄いパラフィンを紡ぎ出しているのは僕たち自身なのだ。
僕たちは自らが紡ぎ出した意味の中だけを泳いでいる。
そして僕たちはその意味の中で倦んでいる。
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