2010/08/10
「撮りたい」と「撮れる」についての再録
「撮りたい」というのは、対象に魅力を感じることで、
「撮れる」というのは能力を引き出す喜びのことだ。
「撮れる」は、どこまで能力を引き出せるかというのがテーマだから、
行き着く先は自然と、いやー、とうとうこんな所まで来てしまったよ、という境地になる。
それに対して、「撮りたい」というのは対象との深いまぐわいを通じておのれならざるものへの変容がもたらされ
望むと望まざるとに関わらずそれは他者の意識や無意識への通路となる。
「撮れる」のテーマが自分自身であるのに対し、「撮りたい」のテーマは他者なのだ。
どちらの方向に進むかで写真は二つに分かれる。
そして、それぞれの行き着く果てには各々の到達点がある。
撮れる山という山の頂きには「どうだ参ったか写真」がある。
撮りたい谷という谷の底には「他者と通底する写真」がある。
写真を撮り始めて間がない頃は、撮れることがうれしくて、撮る対象に興味があるけれども
なかなか自分の思う写真が撮れないことに気が付いて、それを何とかしたいと思うのはだいたい男性なのだが、
つまりそのうちいろいろ工夫をし始め、道具にこだわり始める。
目的が達成出来るとまた新たな目標が生まれる。
そしてとうとう人は「どうだ参ったか」山に登ってしまうのだ。
写真の国には、まだ写真との関わり方の決まっていない多くの人たちがいて、
「どうだ参ったか」山の参道を粛々と登っている人たちがいて、
撮りたい谷の参道を降りていく人たちがいる。
道具にこだわるとついつい撮りたい谷から離れてしまう。
心得ておくべきことかもしれない。
(あ、誤解なさらないで下さい。これは単に今僕自身が抱えている問題について考察したものです)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
楽しまれていますネ♪
返信削除いや、私は拝読して楽しませていただきました。^_^/
山は高いほど、谷は深いほど、
そして、取組むほどに楽しさが増幅する!
のではないかと思いました。
ちょっと自分を客観視出来る良い考察を
ありがとうございます〜
came_lifeさんありがとうございます。
返信削除いろんなレンズに手を出しているうちに
知らないうちに撮れる山に登っていたように思います。
ここらでちょっと頭を冷やさなきゃ。
でも実はそれがけっこう楽しかったり。
まぁ男の子の業なんでしょう。
かつて機材マニアになってしまったという反省から、機材やテクニックや知識や経験は写真を撮るための手段にしかすぎないのだと常に自分に言い聞かせております。また、写真はテクニックを見せびらかすための競技や競争ではないのだと。
返信削除それでもいつの間にか無意識のうちにそういったものが目的化してしまうというのが男の子の業というものなのでしょうか。(^^;
geckoさんありがとうございます。
返信削除いじくる、工夫する、組み立てる、達成する。
これはやっぱり男の子の心をくすぐりますね。
達成したら褒めてもらいたい。
だから自慢の作品をアップするのは自然な行為です。
本人がワクワクしていさえすれば、それは伝わる。
でも僕は時々自分が全くワクワクしていないのに捨てられずにアップする時があって、
それは自分の撮影の努力に対する落とし前みたいなもので、つまり自己完結型の写真な訳で、
ちょっと油断するとそういう気持ちがぴょこんと顔を出してしまいます。
ま、いいのかな。そんなに真剣に考えなくても(笑)。
あわわ、まさしく今自分もこれに似た状態にあります。
返信削除似てるなどといってはおこがましいですね、、、
どうも今までと違う感じの撮れなさをひしひしと感じています。
世界に寄るような写真が撮れないのです。
うまく撮れる(うまく写ってくれる)被写体を探しているだけなんじゃないかとか考えます。
今日も撮りにはいきましたがしょんぼり帰ってきたところです 笑
paradisさんありがとうございます。
返信削除撮りたい写真が撮れなくて、あるいは自分が何を撮りたいのかがわからなくて
カメラを持って出かけたけどしょんぼりして帰ってくることは僕も多いです。
こういうとき僕の場合は往々にして「自分が」撮るというスタンスになっています。
「カメラに撮ってもらう」。
散歩しているのはカメラで、僕はイヌのようにカメラに着いていく。
というスタンスに変えると、カメラが勝手に撮りたいものを撮ってくれるかもしれません。
なるほど。
返信削除とても腑に落ちました。ありがとうございます。
ずっと覚えておきたいです。