
Kern Switar 25mm f1.4
写っているのが他人であれ自分であれ、写真に写った像は僕たちの想定を超えて酷薄である。
それはカメラを使ったことのある人には自明の事実だろう。
端的に言えば写真に写った姿は実際よりも皺だらけでしみだらけで年老いていて醜い。
だから僕たちは写真を見た途端びっくりしてしまう。
プロでない僕たちが普通に写真を撮って、実際よりも美しく撮れることはまれなのだ。
これは一体どういうわけなのだろう。
僕たちが「実際よりも」という場合、その実際というのは僕たちの持っているその人に対するイメージなのだから、
写真に写っているのが実際なんだよ。君の思っているイメージは美化されているんだと言われればその通りかもしれない。
でも実物を見る時に美化というフィルターがかかるなら、写真を見る時もそのフィルターがかかってもいいじゃないか。
どうして写真の時だけフィルターがかからないのか。
僕たちが直接人と会って話をしているときは、それが他人であれ自分であれその人と自分との過去から現在に至る関わりの総体を感じながら接している。
だから僕たちが見ているのはその人の顔であって顔ではない。
僕たちは顔を見ていない。
だが写真はそうではない。
僕たちが写真を見る時、こちらの姿は相手には見えないので覗き穴を通して相手を観察しているようなものだ。
僕たちはその人との交流を抜きに、その人の外観だけを抽出する。
だから無時間的に切り取られたその人の顔だけを見てびっくりする。
花はそうではない。
花は見たままに写る。
花に過去はない。少なくとも私とその花は過去から現在に至る私との固有の関わりの総体としての関係ではない。
だから私は花を撮り、撮られた写真を見ても驚かない。
写真は身も蓋もない。
身も蓋もある写真にするために必要なものは何だろう。
そこに過去から現在に至る固有の関わりを写し込むことを可能にするのは
対象に対する想像力しかなかろう。
写真は原則的に酷薄なものだ。
写真はそのまま撮れば酷薄なのだ。
追記
「想像力の射程距離」
一般的な傾向として男性より女性の方が魅力的な写真を撮るということについて
悪くいえば男性の想像力がカメラとレンズに留まっているのに対し
女性の想像力はカメラとレンズを超えてその遙か先の対象にまで到達している。
対象こそが彼女たちを突き動かしている。
写真の魅力の過半は想像力の射程距離と関係がある。
以上自分のための覚え書き。