Nikon D700 with AF MICRO NIKKOR 2.8/55
View On Black
写真を撮りながら歩いていると"見のがし不安"が常に付きまとう。
いま通り過ぎようとするこの草むらにさえ
僕はなにか重要なものを見過ごしかけているのではないか
何かが囁く声を、僕は聞き逃しているのではないか。
何か、決定的な何かと出会うチャンスを、僕はみすみす失っているのではないか。
今ならまだ間に合うかもしれない。
だから後ろ髪引かれてついあともどりして、なかなか前に進めない。
"あなたにとって大切なものは、あなたが探さなくてもむこうからやってくる"
あるいは"あなたにとって大切なものは、あなたが逃げてもむこうからやってくる"という考え方がある一方で
じゃあ人生にとって「探す」という行為は全く意味をなさないのかといわれればそれもどうかと思う。
おそらく答えはその二つの間にあって、探すことが意味を持つ時もあれば
意味を持たない時もあるということなのだろう。
それよ、私は私が感じ得なかったことのために
罰されて死は来たるものと思うゆえ。
中原中也
shinさんの中原中也の引用から、
返信削除シンプルに小林秀雄経由でアルチュールにジャンプしますね。
「彼は未知のもとに到達し、
そしてその時、狂乱して、おのれのさまざまな視線についての
知的認識力を失ってしまった時に、
初めて彼はそれらの視象(ヴィジョン)を真に見たのです!」
(アルチュール・ランボー 見者の手紙より)
もし、写真という行為が人間の知覚の習慣につきまとう妄想を吹き飛ばして
真新しくも世界を更新し続ける瞬間を再生産できるなら...
言葉にならなくても、そう願ってレリーズする人々...
hiroshipsさんありがとうございます。
返信削除見逃したものが意味を持つとすれば、
自分の殻を外側から割ってくれたはずの親鳥を永遠に失ってしまったのではないかという不安だと思います。
はたして自分の殻を破ってくれるのは自分の外からやってくる未知なるものなのか。
そして殻の内側にあるのはただ自分を縛るだけの因習なのか。
禅に卒啄同時という言葉がありますが、殻は内側のひなと外側の親鳥が同時に殻をつつかなければ破れない。
いやむしろひなが殻を内側からつつく時が来たから、それに呼応して親鳥が間髪を入れず殻を外側からつついてくれるのでしょう。
そこにはひなも親鳥もなく、実は「殻をつつく時」があるだけかもしれません。
時が満ちたら意志は消え、殻は時が破るのです。
時が来るまで人は探さなければならない。
しかし時が来たら、探すという行為と破殻とは何の関わりもなくなる。
あ、これはもう独り言ですね。無視してください。