2022/09/03

反論できないことを大声で喋る人





  世の中には反論できないことを大声で喋る人がいる。その多くは社会的弱者や少数派の人権や地球温暖化や戦争や核といった人類全体の安全に関わる問題について喋る人たちだ。

意見を述べるというのは対話を前提としている。対話を通じて自分の気付かなかったことを知って考えを改めたりそのテーマについて問題を俯瞰できるようなレイヤーに登る喜びを互いに感じたりするのは対話のもたらす大きな喜びの一つだ。

しかし例えば相手が差別はいけないと言い出したら、それ以降どのような対話が可能だろう。同じ土俵に入って、いやそもそもこういった問題で錦の御旗のような言葉であたりを無差別に(笑)なぎ払うってどうなの?などと言おうものならあなたは差別を容認するのかと言われてあとは水掛け論となる。戦争や核や地球温暖化についての議論にも同じ側面がある。バカの壁という言葉もあるが、絶対不敗の旗を振り回す人とはなかなか会話が成り立たない。

こういった、誰が考えても反論しようのないテーマの背後にあるのはなぜ世の中にはいまさら反論できないことを喋る人が一定数いるのかという問題だ。普通は正義の旗というのは恥ずかしいものだ。それはいっそはしたないと言ってもいい。身も蓋もないという言い方もある。振り回せば必ず勝つだろうが、こういった議論で勝つことになぜ必死になるのか、いやそもそも私にはたしてその旗を持つ資格があるのかと自問してみれば、自分はふさわしくないと考えるのが奥ゆかしい日本人?というものだ


人間というのは弱いものだ。弱さ故に生まれるのが暴力・大声・嫉妬・残忍・ズルさ・裏切り・卑怯・虐待・たくらみ・憎しみ・イジメ・仲間はずれ・無視・ずさん・手抜き・改ざん・陰謀・ウソといった、「悪」の数々だ。このなかに悪に手を染めたことのないものは手を挙げよと言われれば挙手できる人はいないだろう。だからひとは正義の旗手になろうとはしない。それはそのひとが少数派に属するか、多数派に属するか、被差別者か加害者かによらず人間であることの、社会で生きるひとであればすべての人に共通する、自分の弱さから幾分なりとも悪に手を染めたことのあるものに共通する潜在的な後ろめたさがあるからだ。

ポリコレ流行りの昨今、この国を自分たちの狙いの方向に無理矢理持って行こうとする一派の口車に乗せられる心優しい純朴なひとも多いだろう。純朴な人が錦の御旗を手にすると持ち慣れない強さに酔ってあらぬことをしでかしたりする。強さ慣れしていないひとには、何をするかわからない怖さがある。だからこういった反論できない問題について我々にできることがあるとすれば、被害を受けた人への共感と悲しみ、そういった悪が生まれた背景についての理解、被害者の不利益を保護することを口実に自分たちの勢力を広げようとする別の悪に対して互いに警戒することだろう。

正しいことをいって何が悪い?少数者が不当な不利益を被ったら勇気を出して声を上げるべきじゃないか。
小学生だったら許されるこういった義憤のようなものに対し、ふつう大人は冷ややかだ。なぜなら大人は「ある問題」というものの背後には様々な事情というものがあって、事象はその力学的総体として表面に現れてくるものに過ぎないことを知っているからだ。
子供には表面しか見えない。だから大騒ぎして喚く。おおざっぱな論理で辺りをなぎ倒そうとする。しかし表面に現れた不快な現象の背後には、実は苦渋の末の配慮や先を見越しての深慮などがたくさん含まれていよう。そういったぱっと見にはわからない、海面下の氷山のようなものには名前がある。それをひとは「知恵」というのだ。






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