2008/11/14

お風呂でお墓

当直明けのぼんやりした頭でお風呂に入りながら日本人はなぜ「千の風になって」という歌が好きなのかを考えていた。

世の中には何千万円もかけて生きているうちに立派なお墓を建てる人もいれば灰は海に流してくれという人もいる。何千人もの人を使って何十年もかけて建造し何千年後にも残るようなピラミッドを建てる人もいる。

そんな立派なお墓を作ってどうするんだというのがごく普通の考え方で、自分がいなくなった後も一定の空間を占拠し続けるなんてなんだか傲慢な気がする。
第一無駄じゃないか。もう本人はいないというのに。

でも人間の営みというものがそもそも無形のものに有形の形を与えるという行為なのだから、というのは例えば思考という無形のものを形にしたのが「本」というもので、空気の振動という無形のものを形にしたのが楽器やラジオやステレオだったり、速く走りたいという思いが「車」になったりするわけだから、死んだあとも自分を残したいという思いがお墓という有形のものに姿を変えてもいいわけだ。

でも立派なお墓を見ると何だか無駄に感じるのは、それが非常に個人的なもので、ほかに使い道がないからだろう。例えばそれがいかに大きくて立派でお金がかかっても、新鮮な野菜を長期間保管する倉庫だったらあまり無駄な気がしない。
それを利用する人もいっぱいいるわけだし。

じゃあお墓というものはほかの人が利用するわけじゃないからやっぱり無駄なのかと言えば、本人はもういないからいいとしても、残された人の心のよりどころとしての働きがある。

ネアンデルタール人の墓から花粉が見つかったことで彼等は死者を悼んでお墓に花を添えたと考えられている。
この発見のことを知ったのはずいぶん前だけれど、その時の僕の驚きは鮮明で、心の深いところまで届く感動としていまだに生き続けている。
その発見は愛していた人が死んだことを悼む人の悲しみと、花を手向けるその仕草を鮮明に、すごくリアルにイメージさせる力があったので、それまではウッホ、ウッホいいながら棍棒を振り回すだけの毛むくじゃらの原始人程度のイメージしかなかったネアンデルタール人が、すぐ目の前にいる普通の人として感じることが出来た。

人は死んでもその人のまわりの人の心の中では死なない。親しかった人にはその人による何らかの行動や思考の変容が必ずあって、心の中にその人によって形成された変容の核のようなものがあり、それは心の中にあるのと対応する形態の存在を、自分の外側にも存在することを要求する。それはあるときにはお墓であり、ある時には思い出の品となる。

だから自分が死んだら灰は海に流してくれと言うのは何だか潔くて好ましくも思えるが、残された人たちにとっては海を見てあの人を思い出すというのはなかなかむつかしい。だからこの行為は潔くもあるが何だか独りよがりな印象がつきまとう。

千の風になってという歌はお墓には私はいませんという。
ただこの歌はお墓に私は「いない」とともに、私は千の風としてあなたをつつんで「いる」という。
この歌はそこには私はいないと言って、ここには私はいるという。
私の居場所の変遷を告知する歌なのだ。
この歌を聴くことによって、風という無形のものに私にまつわる思いを乗せてもかまいませんという。
人々は「了解しました。私もかねがねそう思っていたのです」と返事をした。

2 件のコメント:

  1. 一緒に歩いた散歩道に、モンシロチョウがひらひら近づいてきたりすると。
    その人を思い出したり、その人がチョウの姿になって合いにきたのかと感じたり。
    shinさんもこの後「チロリアン」を食べる機会があったら、
    yamを思い出すでしょう。(チロリアンねたで引っ張るなぁ〜笑)

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  2. yamさんサンキュです。
    なんとかチロリアンを手に入れねば(笑)。

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