2014/04/29
クルマという自己拡充の物語
女性はいざしらず男性は妄想世界に生きているのでクルマに乗る、あるいは車が好きというのはその機能性との感応だけではなくて車にまつわる物語世界に入ることを意味していたりします。つまり男性が乗っているのは車ではなくて「物語」なのです。
日本車にはかつて1964年の日本グランプリでスカイラインがポルシェを追い抜いた話とかいろいろありますが、海外では例えばメルセデスと死闘を繰り広げたアルファロメオのニュルブルクリンクでの伝説の一戦とか、その時のドライバー、タツィオ・ヌヴォラーリのその他多くの伝説(以下Wikipediaより)、例えば
・オートバイレーサー時代、全治1ヵ月の怪我を負いながら病院を抜け出し、ギプスで固めた足でオートバイに跨りイタリアGPを優勝。
・1930年のミッレ・ミリアでは、夜間走行中、先行車に気づかれないようヘッドライトを消して追走し、抜き去って優勝。
・1937年、チェコスロバキアのブルノGPでは、左後輪がパンクしたまま3輪走行を続けて優勝。
・1946年のブレッツィ杯では、外れたステアリングを片手に持ち、別の手でスパナをステアリングコラムに差し込んで操舵し優勝。
・1948年のミッレ・ミリアでは、マシンからフェンダーやボンネットが脱落しながらも力走。
とか、1946年以降彼は燃料に含まれていたアルコールによる排ガスを吸って持病の気管支喘息が悪化し喀血しながらレースを続けたとか(The Motor Museum in Miniatureより)
まぁ事程左様にモータースポーツ界にはこういった話がゴロゴロしてるわけですね。
そして私のような妄想がちの男性はこういった物語の匂いに包まれながら車を運転しています。
仮にプリウスのような経済性の権化のような車に乗っている時でさえ燃費トライアルのようなことをしながら車を運転するのが男性という生き物です。
しかし車が利便性や快適性や経済性を追求すればするほどそれは冷蔵庫などの家電製品に近くなり同時に物語からはどんどん遠ざかっていきます。我々男性は夜寝るときに洗濯機の夢をみたりはしません。
まぁそれが原因かどうかはわかりませんが、最近クルマの人気の凋落は目を覆うばかりで、若者はクルマを単なる移動手段、いやそれどころか無駄にお金のかかる不経済な、うるさくて危険でしかも地球環境を悪化させる存在のようにしかみていないようです。これって基本的に女性目線だと思うんですが、それが性別を超えて時代を覆う一大潮流になってしまいました。
では基本的に妄想世界に生きている男性は、今何を妄想しているのでしょう。
それは従来の(車などに代表される)自己能力の拡充ではなくて「コミュニケーション」ではないでしょうか。
しかし男性はもともとコミュニケーション能力は女性より劣っているので充足したいコミュニケーションとは裏腹に、実際にはコミュニケーションがうまくいかない「コミュニケーション不全という空虚なトラウマ」を中心にグルグル回っているようにみえます。うまくいかないコミュニケーション欲はそれでも抑えきれなくなるとストーカー、二次元などの仮想現実に向かえばオタク、というように男性にとっては非常に生きづらい時代になってしまいました。
赤瀬川原平さんは「ピストルとマヨネーズ」(1982年)の「おんなの時代」で、原爆のような、使うことの出来ない最終兵器を発明してしまった人類は、倒すべき敵を地獄に放り込もうにもその地獄で敵と一緒に暮らさざるをえないことになってしまった。そのため敵を倒すことを目的とした自己能力拡充の時代はついに終焉を迎え、敵と仲良く暮らす方法を探っていかざるを得なくなった。それはつまり男性が女性の生き方を学ばないと生きていけない時代になったのだと述べています。
「やたらと人類社会にオカマ言葉が流行っているのも、これまた故なきことではないわけである」
30年以上前の文章ですが未だに卓見だと思います。
しかしどうせ満たされない妄想なら、胸躍るクルマ世界の妄想のほうが楽しいんじゃないかと僕なんかは思うんですが。
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よ~~~く分かりますよ。
返信削除私は、いまだに作らない昔のクルマのプラモデルをせっせと買い続けている妄想世界に生き続けてる馬鹿です・・・・
>t-s-wegnerさん
返信削除そうなんですよね。
女性から見れば男性がどうしてこんなことに一所懸命になってるのかたぶん理解不能だと思います(笑)。