自分の作った作品を見ていいなと思う。
なかなかそうはいかなくて、いやだなと思うことも多い。
作品が自分の手を離れて自立していること。自分の手垢が見えないことがいいなと思える条件かもしれない。
ではそれはどんなときに可能か。
もちろん手垢は付きまくっている。
それは、何を撮るかどう撮るか、撮った写真をどう仕上げるかという工程そのものが手垢の集積のようなものだからだ。
手垢は付きまくっている。しかし見るものの眼にテーマだけが入ってくる作品と手垢が前景化する作品とは何が違うのか。
おそらく手垢が目立つ場合というのは、このように仕上げたい、いや、作品自身がこのように仕上がりたがっているという道が不明瞭で、その道を試行錯誤した手垢の厚みが厚くて、そしてそれはそもそもその道が、つまりテーマが弱かったからそうなってしまったわけだが、その弱かったテーマが厚い手垢でさらに見えにくくなってしまっている場合ではないか。
良い作品はテーマが強い。
テーマが強いとあまり手垢をつける必要がない。手垢が少ないのでさらにテーマが前景化する。
〈後日追記〉
テーマが弱くてもそこには何かがあるという思いが強ければ、その思いが掘り続ける意欲につながり、掘り続けることでようやくテーマがくっきりと姿を現す。何かがあるという思いが弱ければ掘り続けることはできず、テーマが弱いまま、未練だけで作品を提示することになり、手垢が前景化した写真となる。
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