庭のさくらんぼのつぼみも開いてきた。
昔読んだ曽野綾子の「奇蹟」の中の一節を思い出す。
コルベ神父の足跡をたどるためにアウシュビッツ収容所を訪れた彼女は
そのあまりの凄惨さに精神が耐えられなくなった。
その夜彼女はタゴールの詩の一節を思い出す。
少女は少年に言う。
あたしの家の果樹園においでよ。
二人で盗みをしましょうよ。もう二度と、こんな日はあたしたちにないもの。
そして二人は果樹園で茘枝(れいし)の実を盗む。
底知れぬ陰惨さから人間の世界に戻るための足掛かりが
まさにその可愛らしい小さな罪の記憶だった。
秘められた小さな罪。
お庭にサクラですか、いいですね^^
返信削除青い光にピンクの花びらが映えますね。
小さな罪の行為で自由を感じるというのは
自分を傷つけることで生命を確認することにも似ているような気がします。
追い詰められたときに何に依って元の世界も戻れるのか…、
自分なら何を拠り所にするのだろうか。考えてみますね。
僕はcahier-bさんに答えるすべを持たなので
返信削除曾野綾子の「奇蹟」からもう少し引用してみます。
『このタゴールの晩年の詩を、ここで長々と紹介したのは、
私がその夜、この詩の世界を人生の一つの希望としてはっきりと見たからである。
「カニ(主人公の少女。この詩のタイトル)」はこの地球上のどこにでもありそうな小さな青春の断片であった。
それは穏やかな苦しさと自然な悲しみに塗り込められていた。
いやそのような影を持つ故に、それは私たちの心に迫ってくるのだし、その存在を信じられるのであった。
アウシュヴィッツから帰った夜、私は改めて、信じたかったのだと思う。
人間の一生が、もし普通のものであるならば、大してよくも悪くもないものだ、ということを。
アウシュヴィッツの状況を一口で言いあらわすならば、それは「普通ではない」ということであった。
アウシュヴィッツで凍りついた私の心理は「カニ」によって、少しだけ周囲の部分が融けかけてきたのである。
「カニ」は優しく悲しく、とろとろとうっとうしく、しかも爽やかな「普通」である世界だった。
それはアウシュヴィッツに対する、明らかな解毒剤であった。』
時として小さな悪は底知れぬ不幸の解毒剤になるのかもしれません。
引用してくださって、ありがとうございます。
返信削除「小さな悪」というのは「普通の日常」の象徴なわけですね^^
「普通でないもの」から普通への道筋を示してくれるもの。
なるほど。
参考にできるといいな。
ああ、でもなんて平和な解毒剤^^