2022/12/25
宛先のひと
最近あらためて感じたのが一般的な写真愛好家にとってレタッチに対する生理的な拒否反応がまだまだ強いということだ。
以前紹介したこちらのサイト(リンク)でアメリカのとあるプロの風景写真家の「どうして日本はまだリアリズムにこだわっているんだい?アメリカではもう10年以上も前に終わったことだよ」という言葉は決して誇張ではない。日本の写真雑誌の受賞写真を500pxやFlickrや1xのeditor's choiseの写真を比較すればその違いは明瞭だ。
別に海外が正しくて日本が間違っていると言うつもりはないが海外の写真に対する考え方の自由さに比べれば日本の写真に対するそれはある種とらわれの域を出ていない気がする。
文章を書くときのことを思い返してみよう。
私たちはある思いを文章にするときまず何も考えずそれを書いてみる。で、読み返してみて、うーん違うなぁと書き直す。そしてそれを繰り返す。何度も。
例えばそれをブログなどにアップするならアップした文章を翌日読み返してみてさらに手を加えてアップし直す。そしてやはりそれを繰り返す。
これを推敲と言うが、書き直すという行為が一体どのような観点から我々にもたらされるのかを考えるとやはりそこには「読者」という視点の想定を抜きにすることは出来ない。
ラカンは「エクリ」の序文で「文はその宛先の人なり」と書いたそうだが、要するに我々は自分の外に置いた自分や他者の目で何度も文章を書き直しているわけだ。
それを写真に置き換えてみるとレタッチという行為は写真における推敲であり、それが自分であれ他者であれ、つまり「宛先の人による書き換え行為」と考えることが出来る。
逆に、そう考えれば頑迷な撮って出し派の写真も頑迷な撮って出し派の自分への手紙と考えられないこともない。なるほど。そういう訳か。
だからレタッチするかどうかは善悪の問題ではなく「誰を宛先のひとと考えるか」の違いに過ぎないということだ。
自分だけ深く納得して自分宛の文の筆を置く。
メリークリスマス。
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