2007/12/31
2007/12/29
Benthamidia florida
夕方の犬の散歩の時に歩道に落ちていました。何の実だろう。
持ち帰って、雨に濡れた門柱の白いタイルの上に置いて撮影しました。
トンボ出版の「木の実のガイド」によるとハナミズキの実のようです(たぶん)。
赤い実が星のようです。
2007/12/28
2007/12/24
2007/12/21
通電確認
内田樹師匠の今日のブログは非常に示唆に富む内容でした。
http://blog.tatsuru.com/2007/12/21_0848.php
ブログを読んでいて、僕の頭にもスイッチが入る。
「もしもし。あのー、それがしは山盛雪乃丞と申すものですが」
冒頭の「もしもし」というのは、おーい、私とあなたはつながってますか?という意味で、私達が他者とのコミュニケーションを立ち上げるときに最初に行うつながっているかどうかの確認、いわば「通電確認」である。
私達はコミュニケーションを開始するときに、まず通電確認のスイッチを入れる。
そうか。コミュニケーションというのは情報の一次元的なつながりではなく、それを俯瞰する三次元の広がりがあるのか。
さらに話題はそれだけにとどまらず、ケータイを含め、現在の我々のコミュニケーションの重心は情報の交換ではなく、通電確認の方に一方的に偏重しているのではないかという言説にハタと膝を打つ。う~む、なるほど!今の子供たちがケータイを決して手放そうとせず、「私達って、つながってるよね」という確認作業を、中毒のように延々と繰り返さざるを得ないのは、会話の内容に意味があるのではなく、通電確認が得られなくなることが即座に生存の危機を意味するからなのだ。
なぜそんなことになったのか。
それは私達が「伝える価値のある情報」をなくしてしまったせいではないか。
さらにいえば、私達が失ったのは情報ではなく「価値」ではないか。
私達は情報の価値を失ってしまったのだ。
なぜ情報に価値がなくなったのか。
それは私達がもはや生きのびようと思っていないからではないか。
私達はもはや生きのびることは望んでおらず、ただつながっていることだけを望んでいるのではないか。
情報の価値がなくなることで「通信」そのものの存在意義は消滅する。しかし通信がなくなるとつながりが途絶してしまう。そこで私達は情報の代わりに「通電確認」だけを延々と繰り返す。
だからこの通電確認の出来ないもの、「空気の読めないやつ」に用はないのだ。
ネットで自殺願望の人と連絡を取って、一緒に死ぬ。
私達はつながってさえいれば死んでもよいと思っているのではないか。
2007/12/16
ごく微量で効く薬
ある程度の量を長期間服用しなければ効かない薬がある一方で、ごく少量ですぐに効果を現す薬がある。
これはどうしてだろうか。
機能不全に陥った生体に何かを補充することによって機能回復を図る場合、補充するものは大きく分けると2種類あるように思う。
それは物資と情報である。
ご飯を食べなければ動けないように、生体には機能を存続させるために必要な物資がある。この場合補充する物資の有用性には用量依存性がある。
一方、情報にも量としての情報と、刺激としての情報がある。
量としての情報はある程度の量が投与されないと情報として作動しない。
これに対し刺激としての情報はある種のヒントのようなもので、ごく微量の投与だけで不活化していた生体内のシステムを作動させることが出来る。
武道家の育成に当てはめて考えると、物資の補充というのは筋肉をつけるためにもりもり食べることに相当する。
ある程度の量が投与されないと作動しない「量としての情報」は、新しい技を習得するために繰り返し練習をすることに相当する。
師匠のたった一つの言葉が行き詰まっていた弟子の身体の動きを大きく変える場合がある。これがヒントとしての情報である。
私達は往々にして全ての薬が用量依存性だと考えているが、いまこの目の前にある生体のとって必要なのは物資の補充なのか、量としての情報なのか、ヒントとしての情報なのかを考える必要がある。
蛋白質の多くは消化管内の酸や酵素により抗原性を失う。その一方で小腸粘膜のM細胞は抗原性を残したまま物質を積極的に取り込んでいることが知られている。これはあくまで防御機構の話だが、生体にとって有用な物質を大分子のまま取り込むシステムの存在を想定することは無意味ではないだろう。
christmas cuctus
写真を撮ると、ブログにアップするために選別という作業を行うわけです。
どんな基準で選別するかというと、まずピントが合っていなかったり、露出が適正でなかったり、ホワイトバランスが変だったりというどうしようもない写真を捨てる。僕の場合はこれが2割くらいあります。
次に、これが一番多いのですが、撮ってはみたけど意外におもしろくなかった写真が5割くらいあります。これも潔くぽいぽい捨てる。
最後に残ったまあまあな写真3割の中から使える数枚を選ぶ。画像処理して使える写真にしたり、一度捨てたけど復活したり、いいと思っても後からみるとつまらなかったり。ここが悩みどころですね。
でも数百枚撮影すると、まぐれで(あくまで自己評価ですが)段違いの写真が一枚撮れる。これは別格で、ラフに選んでいる段階からすぐに目にとまる。こんな写真は画像処理も何も要らなくて、ただそれだけで自立している。
人も写真も、不連続に飛び抜けてひときわ優れたものは確然としてある。不思議なものですね。
ちなみにこの写真は一度は捨てたけどにゃーにゃー啼くので拾ってきた一枚です。
2007/12/14
2007/12/11
2007/12/07
雪かき仕事
内田樹師匠の「村上春樹にご用心」のしおりです。このキャラクターはなかなかラブリーですね。
本の内容はこれまで内田先生が村上春樹についてブログに書かれたものを集めただけですので、ブログを日夜欠かさず読んでいる内田ファンにとっては新しい言説は得られませんが、ディープな内田ファンにとっては「そんなの関係ねー」ですね。たとえば好きな曲がかかってきたときに、「これは聞いたことがある」と言ってラジオのチャンネルを変えるでしょうか。あるいは吉本新喜劇のくさいギャグに毎回大喜びする関西人のようなものです。
なぜ人は繰り返しを喜ぶのか。そこが「ツボ」だからです。コリがほぐれるまでは何度でも同じ場所をマッサージしてもらわないとね。
師匠の言葉は毎回身にしみます。
2007/12/04
Sun pillar
2007/11/30
2007/11/23
Honda Benly 50S
今朝ふとんの中でまどろみながら、「ちっちゃいバイクに乗りたい」という言葉が天啓のようにひらめいた。
以前の愛車V-Twin Magna 250は4万キロ走ったあとキャブが死んで廃車にしてしまった。もうバイクには乗らないだろうなと思っていたのに。
起きてすぐGoogleで「ちっちゃいバイク」で検索してこいつを発見。おお、これこそまさにイメージ通りのバイクだ。
バイクの名前はホンダベンリィ50S。この赤と銀のツートンカラーの50Sは中古車(1999~2003)のみ。
電話で在庫を確認し、高槻のバイク屋さんへ車で見に行きました。
高槻のZEUSさんまで渋滞で2時間かかってしまった。感激の初対面です。
50ccバイクなのにけっこう精悍な顔つき。(ちなみに左後ろに見えているのは以前僕が乗っていたのと同じV-Twin Magna君です。これもすごくいいバイクでした)
世界のホンダ。
マフラーのモールがいい味です。全体はちょっとカフェレーサーっぽい雰囲気がありますね。
前から見ても