ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 映画 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017/09/17

パリ、テキサス

数年前にDVDを買ったまま放置していたヴィム・ヴェンダース監督のロードムービー「パリ、テキサス」を観た。
もともとライ・クーダーの音楽が好きで、彼がスライドギターを弾いている本作もそれが理由で買ったのだが、なかなか観る気になれなかったのはこの映画の持つ荒涼とした寂しいイメージのせいだろうか。しかし見終わった今では脚本のサム・シェパードがひとつきほど前(7/27)に亡くなっていたことや、僕がこのDVDを観た前日(9/15)に主役のハリー・ディーン・スタントンが亡くなっていたことに偶然とはいえ不思議な縁を感じている。

もう30年以上も前の映画だ。
最愛の妻との関係が破綻したショックで記憶を失った主人公のトラヴィスは4年もの間メキシコを放浪したあげくテキサスの荒野で行き倒れになる。連絡を受けた弟のウォルトは、この何もしゃべらず頑なな兄の世話に手を焼きながらも何とか彼を自宅のロサンゼルスまで連れ帰る。そこにはウォルトとその妻アンが引き取って自分たちの息子として育てていたトラヴィスの息子がいた。トラヴィスは息子(名前はハンター)をつれて妻ジェーンのいるヒューストンへ行き、息子を妻に託して去って行く。そういう映画だ。

主人公トラヴィスの、ぼんやり見ていると見逃してしまうほどのわずかな表情の変化、弟夫婦の兄に対する細やかで行き届いた心配り(本当に善良な夫婦なのだ)、息子ハンターの、かわいさの中にもいっぱしの男らしい心の動き、主人公の妻ジェーン(ナスターシャ・キンスキー)の愛らしさ・可愛さ・美しさ・そして万感の表情表出、秀逸なカメラワークと独特の深いフイルムカラー、そしてライ・クーダーの奏でるスライドギター。
そういったすべてが、この低予算で作られた映画に横溢していて、見終わった後も永く余韻を残す。

ただなんというんだろう、もとのように仲良く親子3人で暮らすハッピーエンドを期待していた僕のような観客は、去って行く主人公と、それとは対照的に息子との再会を喜ぶ妻を見ていて釈然としないものを感じてしまう。いったいなぜトラヴィスは去らなければならなかったのか。

トラヴィスは息子にテープレコーダーの吹き込みを残している。
「望みがいっぱいあったんだよ。君の父親であることを分かってほしかった。君は分かってくれた。でも一番望んでたことは、やはり無理だと分かってしまった。君はママと生きろ。君たちを引き離したのは僕だ。僕が君たちを一緒にしなければならない。僕は一緒に生きられない。過去の傷がぬぐえないままだから。どうしても駄目なんだ。何が起こったのかも思い出せない。空白が空白のまま孤独に輪をかけ傷はいっそう治らない。だから今は、怖いんだ。また出掛けてしまうことが怖い。自分が発見するものが怖い。それに立ち向かわないことがもっと怖い。愛してるよ、ハンター。僕の命よりも愛してる」

トラヴィスはなぜ自分が傷を負ったのかが分からない。おそらく彼はその訳を思い出したくないために自ら記憶を消したのだろう。そして理由が未解決である以上、それは再び必ず繰り返されるであろう事を彼は知っている。だがその空白をのぞき込むことが怖くて出来ない。発見することよりも、立ち向かうことの方がもっと怖いから、彼は立ち向かうことが出来ないのだ。ならば彼が消したかった記憶とは何だったのだろう。

トラヴィスは2回目の訪問で、のぞき部屋で働く妻にマジックミラー越し、マイク越しに(それが自分たちのことだと分からないような話法で)語りかける。
自分が彼女の愛を信じられず、ありもしない自分以外の誰かに対する嫉妬に狂っていたこと、そして妻が自分以外の誰かに嫉妬するのを見たかったが無駄だったこと。そのせいで自分は荒れ狂っていたこと。ところが妻が妊娠した途端に彼女の愛が信じられるようになって人生を前向きに生きることが出来るようになったこと。ところが今度は逆に妻が空虚を感じるようになって彼のもとを去ったこと。

嫉妬。それは欠落に対する怯えと怒りだ。トラヴィスははじめ欠落を持っていなかった。いや彼の中では欠落は意識化されていなかったのだろう。しかし愛する人を持ったことで欠落に対する怯えと怒りに襲われることとなった。だがジェーンに子供が出来たことで彼女を失う危険が去ったと感じ、欠落に対する怯えがなくなった。しかしトラヴィスの関心が子供に移ったと感じたジェーンに今度は逆に欠落に対する怯えが生まれた。つまり息子のハンターは夫婦の間ではともに欠落を埋めるものとして存在していて、それが一方の欠落を埋めているときは他方が欠落にさいなまれるという構図になっているのだ。トラヴィスがジェーンに、どうしてハンターを置いていったのかと問うた時ジェーンは、「空しさの代償として息子を利用したくなかったから」と答えている。ジェーンのふしだらな現在の生活を知って、トラヴィスはまた昔の荒々しい嫉妬心が蘇るのを感じた。だが問題はジェーンのふしだらな生活ではなく彼の中に生きている「欠落に対する怖れと怒り」なのだ。

トラヴィスは欠落によってしかひとを愛し得ない。それが彼が消したかった記憶だ。愛するひとを手に入れて幸せになる人がいる一方で、愛するひとを失うことを想像することでしか愛を感じることが出来ない人がいるのだ。なぜ彼は欠落でしか愛を感じることが出来ないのだろう。

妻がヒモの男とのぞき部屋で仕事をしていたことを知って激昂し、夢破れてその場を去ったトラヴィスは酒に溺れ夜中のランドリーで息子に両親の思い出を語る。トラヴィスの父親は妻がパリの出身だと幾度となくひとに自慢するうちに本当に妻がフランスのパリの出身だと空想してしまいそのせいで母親が居心地の悪い思いをしていたこと。トラヴィスもまたジェーンが自分以外の誰かを愛しているのではないかという妄想でジェーンを苦しめていたこと。父親譲りの空想癖という悪い宿命が、ジェーンとハンターの幸せをきっと邪魔するだろう。彼が欠落でしか愛を感じることが出来ないと感じているのは両親の思い出と関係があるのかもしれない。

では彼はこれからどこへ行くのか。
言葉を失っていたトラヴィスが、いらだつ弟に初めてしゃべった言葉が「パリ」である。トラヴィスは車を運転している弟にパリへ行こうという。フランスのパリを想像する弟に兄はパリの写真を見せる。それはトラヴィスが通販で買ったテキサスの土地の区画の写真だ。それを見た弟が「何もない」と言う。それに対して笑いながら答えるトラヴィスの言葉も「Empty(空っぽ)」だ。
トラヴィスにとってテキサス州のパリは自分がこの世に生を受けた場所であり、妻と子供の3人で新生活を開くために買った土地である。それは彼にとって自分の原点であると同時に未来であった。だが陸橋の上で叫んでいた男の予言通り楽園は永遠に失われてしまった。妻に再会して悄然とし、バーで呑んだくれたトラヴィスはずっと大事に持っていたパリの写真をうっちゃってしまう。この映画のタイトルである「パリ、テキサス」とは彼の心の空虚、どこにもない安住の地を意味している。父親と同じく欠落を通してしか相手の愛情を確かめられないトラヴィスは、「妻と息子の元を去るという欠落」でしか表現できない愛情を抱えて生きていく決心をしたのかもしれない。





追記1
マジックミラー越しに語り合うトラヴィスとジェーン。相手がトラヴィスであることに気づいたジェーンが部屋の電気を消し、ついに二人はお互いを見つめ合う。そのときトラヴィス側から見たジェーンの顔にトラヴィスの顔が重なって両者は一体となる。二人は互いに永遠に欠落を共有し得ない似たもの同士なのだ。

追記2
この映画では平和に暮らしていた弟一家にとって兄は平和をかき乱す「異人」として登場する。弟夫婦にとってハンターはかけがえのない子供だが、しかし不思議なことに弟夫婦は共に、それと意識しないままハンターを失うような行動ばかりしてしまう。夫のウォルトは厄介で手に負えない兄を何度も置き去りにするきっかけがあったにもかかわらず彼を家に迎え入れてしまい、ついには彼がヒューストンへ行く金銭的援助までしてしまう。妻のアンは二人が仲良くなってしまうかもしれないのにトラヴィスに息子の送り迎えをさせようとしたりトラヴィスが居心地がいいようにやたらと彼を気遣ったり、挙げ句の果てにジェーンの居場所まで教えてしまう。そして彼女は息子を失ってしまうかもしれない怯えを夫に訴えているにもかかわらずこういった行為を行ってしまうのだ。
ハンターがやたら宇宙のことを口にするのも気にかかる。古いフォルクスワーゲンの中でトラヴィスと仲良くするようにウォルトから言われたハンターは「宇宙船が車みたいに作られるようになるのはいつか?」と聞いたり、ジェーンの居場所がヒューストンと聞いて「宇宙センターがあるところだ」と言ったり、車の中でトラヴィスに太陽と地球の誕生の様子を教えたり。まるでいつか自分がここから飛び立つことを予測していたかのような。
つまりこれらはトラヴィスを中心に描かれたこの欠落という愛の物語の筋運びの中ではウォルト夫婦とハンターの別れが深刻になりすぎないような配慮の表れなのかもしれない。

追記3
この映画では離れている二人が何かを介して交流するという構図が繰り返し描かれている。
コミュニケーション不全といってもいいが、言葉を失って会話が成立しない兄と弟、道路を挟んでお互いに身振りをまねするトラヴィスとハンター、ヒューストンへ母親を探しに行くことになったときに必要な物品としてハンターがトラヴィスに要求したトランシーバー(なぜそんなものがいるのかといぶかしがる父親に対しハンターは「きっと役に立つ」といい、実際このトランシーバーは母親追跡に大活躍する)、マジックミラー越しにマイクで語り合うトラヴィスとジェーン、トラヴィスがハンターへの別れのメッセージとして吹き込んだテープレコーダー(ソニーのウォークマン?)など。これらはすべて「直接には愛を交わし合えない」夫婦や親子の関係の切なさを表現して、この映画をより印象深いものにしている。

追記4
トラヴィスが靴磨きを終えて靴を揃えたときになぜ急にハンターを送りにいくことを思いついたのか。靴を揃えるというのは家族が揃うことの暗喩であり、そこにハンターの靴が無かったことから彼を送りにいくことを思いついたのか。トラヴィスが双眼鏡で覗いていたのは旅客機そのものではなくなぜ旅客機の影だったのか。双眼鏡で覗くという行為はあこがれを意味しており、飛び立つ(旅客機)ことは出来ないが、飛び立つ事へのあこがれを「旅客機の影を追う」という行為で表現しているのか。アンが旅客機の音が嫌だといい、ハンターが「僕は好きだよ」と答えたのは、ハンターがこの家を去ることをアンが否定的にとらえているのに対し、ハンターは肯定的にとらえていることを意味しているのか。ウォルトがトラヴィスをロサンゼルスに連れてくる道中で何とか彼を旅客機に乗せたものの彼が嫌がって離陸前に二人して旅客機から降ろされるのは、新世界に飛び立つことをトラヴィスが拒否していることを暗示しているのか。そして飛行機に乗るためにいったん返したレンタカーだが、飛行機に乗らないことで再びレンタカーを借りることになったとき、トラヴィスが頑なにさっきまで乗っていたレンタカーを探し出してもう一度乗ることに固執したのは、彼が旧来の考え方から抜け出すことが出来ないでいることの暗喩か。DVDの特典映像にヴィム・ヴェンダースがカットした映像とその理由をたくさん紹介している。カットされなかったシーンには何らかの意味があるはずだと思う。それが監督の意識によるか無意識によるかの違いはあるとしても。

ああ、これでようやくこの映画について語り尽くしたかな。長々と書いてしまった。いずれも映画を見ていて僕自身の中で引っかかった点を自分に納得させるために考えたことばかりで、この解釈が他の人にも受け入れられるものだとは思っていません。お付き合いいただいた方がおられましたら感謝です。
台風の風雨が強い夜に。


















2015/10/18

宇宙戦争


"The War of the Worlds"

宇宙戦争というタイトルに惹かれてこの映画を見たひとは、宇宙人の襲来による壮絶な破壊と、絶滅の危機に瀕した人類が苦闘の末に宇宙人達を退治して「ああスッキリした!」という展開を当然予測していたと思いますが、しかし実際には意に反して主人公は逃げ惑うだけで軍隊も宇宙人には全く刃が立たず、最後は宇宙人たちが感染症にかかって自滅するという、なんとも歯切れの悪い結末。
実際ネット上の映画批評も概ねガッカリ感と子供嫌い映画の代表作みたいな扱いが多い。
僕自身もこの映画を見て結末のあっけなさに拍子抜けしたひとりなんですが、ただ僕の中ではむしろこの奥歯に物が挟まったような感じがこの映画を永く記憶にとどめる要因になったように思います。
それで今回アマゾンプライムで映画が見放題になったのをきっかけに初演から10年ぶりにこの映画を見て、初見とは違う印象を持ったのでその感想を述べてみたいと思います。

あらすじを振り返ってみます。
作中の主人公(トム・クルーズ)は三十歳過ぎの港湾労働者。昔で言うところの沖仲仕で、ガントリークレーンという巨大なクレーンを巧みに操って船荷の積み下ろしをしている様子から彼が優秀なクレーン操作技術の持ち主であることがわかる。
(Wikipediaによれば沖仲仕という仕事はかつて高賃金で体力勝負の労働現場で荒くれ者が多かったことから、誤解を避けるため最近では港湾労働者と言い換えられる傾向にあるという。これは後ほど述べる彼のキャラクター設定と密接な関係がある)。

彼には妻と高校生くらいの男の子と小学校低学年くらいの女の子がいる。
しかしすでに妻とは離婚しており、引き取った子供たちも父親の無神経・無教養かつ生活能力の低さと、それに反して父親としての権威や愛情や尊敬をひつこく要求してくることに心底うんざりしている。

つまり彼は彼の家族たちにとってはコミュニケーション不能者として存在しているのですが、実は彼自身はコミュニケーションを拒絶しているわけではなく、むしろコミュニケーションを切望しており、しかし彼にはなぜ対話が不能なのかがわからなくて混乱しており、そのストレスを家族にぶつけることでさらなる対話不能の状態に陥っている。

主人公は機械操作を仕事にしており、機械が好きで車好き、信号無視の荒っぽい運転は日常茶飯で、愛車に載せ替える予定の巨大なエンジンを居間にデンとおいていたり、修理屋より車に詳しくて、息子が勝手に自分の車を使うことを断じて許さず、野球が大好きで、部屋の中は荒れ放題で、娘はもう小学生になるのに生まれた時から彼女にピーナッツアレルギーがあることも知らず、彼女を眠らせる時の子守唄も知らないので、彼女が宇宙人の襲来で怯えているときに彼女に歌ってあげれたのは「オレの愛車」みたいな歌だけだったり、息子の宿題のことも知らず、息子の学費を払っているのは実は自分ではなく妻の新しい夫であることも知らなかったり、冷蔵庫には食べ物はなく、食事はすべてケータリングで、宇宙人が襲来した時の雷の落ちた場所には真っ先に見に行き巨大ロボットが地面から出現して周囲に殺人光線を撒き散らしているのに逃げるより好奇心が優先するという、男の子がそのまま大きくなったようなひとです。自分の機能の拡大と達成には関心があるが、家族や周りの人に対する関心が極端に薄い。
つまり彼は言わば過剰な男性性のペルソナとともにに女性性(アニマ)の欠如した人として造形されているわけです。

そこに宇宙人が襲来する。
宇宙人の巨大ロボットから子供達と一緒に車で逃げているさなかに、彼は息子から徹底的に罵られ、父親としての権威を否定され、人格否定され、また娘のことをこれまで何も知らなかった、そして今も何もしてやれないことの悲しみと無力感に陥る。
見ている方としてはこんな危機的状況のさなかに必死に子供達のことを気遣っているええお父ちゃんやないかという気持ちになるので、それが子供嫌い映画のカテゴリーに位置づけられる理由の一つだと思うですが、実は子供達はかりそめの悪役で、父親がここで徹底的に精神的に追いつめられることが次の展開に繋がります。

そしていよいよ家族が乗ってきた車が暴徒に奪われて、その車を奪った男がまた別の男に射殺されるという衝撃的な場面。フェリー乗り場のカフェのウィンドウ越しにそれを見た主人公は慟哭します。なぜ彼があのシーンで慟哭したか。
あの車に載っていたのは実は主人公の男性性自身で、あの車に乗り続けていたら自分もあそこで射殺されていたということに、主人公が気が付いたからでしょう。
これは彼の「男性性のペルソナ」が決定的に否定されてしまう場面であり、彼は引き剥がされたペルソナとの別れと苦しみに泣く。
おそらくこれがこの物語の分岐点と思われます。
(追記:車を奪われるという出来事だけでなく、すがりついてくる群衆を振りきって突破しようとした主人公の車が停止することになったのが子供を抱いた女性を避けようとして木にぶつかったからというのも非常に暗示的です)。

さて、息子は父親が失った父性を纏(まと)い、代わりに自分は宇宙人と戦うんだと言って、取り憑かれたように丘の上を軍隊の後を追います。取り縋る主人公はここではもはや母親の役割を担っている。
息子に去られた主人公は娘とともに丘の麓の廃屋に逃げこむ。
そこには同じく家族を失って潜んでいる男がいて、彼の「オレは死んでも生き残る」とか、「逃げまわるのはまっぴらだ、アメリカの名誉のためにオレは戦う」とか「あんたはオレとは生き方が違うようだな」といった発言から、彼は主人公のかつての男性性を具現していると思われます。主人公はここで娘のために彼を殺害するのですが、それは主人公が自分の意志で(つまり能動的に)かつてのペルソナを否定することを意味していると思われます。

続いて潜んでいた廃屋に巨大ロボットの食指が大蛇のように入ってきて廃屋内を調べ回ります。親子で地下室を逃げまわるのですがついに娘が見つかってしまい娘が連れ去られそうになる。そこで主人公はナタでその大蛇のような食指を断頭するのですが、ご存知のように蛇というのは男根の象徴で、この断頭とは男性器の切断の暗喩でしょう。これを持って主人公は完全にかつての男性性と決別するわけです。

そこからお話は急展開し、一旦宇宙人に奪われた娘を命がけで取り戻した主人公は娘とともに妻の実家(母性の暗喩)のあるボストンへ向かう。ボストンでは驚いたことに巨大ロボットは機能停止しており、彼らは地球の微生物によって自滅したというのです。ボストンの妻の実家にたどり着いた父娘は妻と息子と再開し、(あれだけいがみ合っていた)主人公と息子は抱擁しあって映画は終わる。
この結末のあっけなさは何でしょう。
それはつまり主人公が偽りの男性性というペルソナに決別しアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)を果たしたことで、もう宇宙人の役目は終わってしまったことを意味しています。つまりこの物語においては、宇宙人というのは単なる舞台回し、狂言回しに過ぎなかったわけです。これは、主人公がアニマを獲得して家族とリユニオン(再結合)するという物語だったのですね。
そしてこの映画のタイトル、日本名は宇宙戦争ですが、原題は"The War of the Worlds" 直訳すると「世界」同士の戦い。
何と何の戦争でしょうか。もうおわかりですね。これは家族とのリユニオンの物語であると同時に、(主人公の内面における)男性性と女性性という二つの世界間の戦いの物語でもあったのです。
H.G.Wellsはそんなつもりでつけたのではないと思いますが。

追記:
物語はその物語を読む人によって様々な解釈が可能です。
これは僕自身の解釈であってあなたの解釈ではないということをご理解下さい。






2013/02/20

裏の世界へ通じる穴



昨日のお話の続きです。

トランプに表と裏があるように、全ての物語には表と裏がある。
表面に現れている物語には必ず裏の世界へ通じる穴があり、それは表の物語において
「何だかよくわからないが何となく気になるもの」という一種の謎として立ち現れる。
昨日の映画でその役割を担っているのが骨塩量測定器だ。

あの映画は表面的には幾多の困難を乗り越えて夢を実現するサクセスストーリーだが、その裏側にあるのは「過去を取り戻そうとする男(ヒッピー)と未来を取り戻そうとする男(主人公)がタイムマシンを奪い合うという物語」である。

かつてそれはあった。しかし今は失われてしまって手元にはない。
だから「過去」は取り戻せるかもしれないが、「未来」を取り戻すとはどういうことか。

ある日高給取りの株式仲買人が赤いフェラーリに乗ってさえない主人公の前に颯爽と登場する。
この物語の中で失われた未来として登場するのがこの「赤いフェラーリ」だ。
その日から主人公は、ほとんど不可能とも思える証券会社への正式雇用に向けて猛然と努力し始める。

一方老いたヒッピーにとって取り戻すべき過去とはジミ・ヘンドリックスがギターに火をつけて燃やしていた1967年。
当時のサンフランシスコはヒッピームーブメントのメッカだったのだ。
真っ赤なフェラーリと燃えるギター。
そのいずれもが、糸巻きが糸を繰り込むように二人を過去と未来に牽引する。
そして二人を過去と未来に連れて行く乗り物こそがタイムマシン(骨塩量測定器)なのだ。

2013/02/19

未来の時間を取り戻す男の物語



夕べBSでウィル・スミスの「幸せのちから(原題:The Pursuit of Happiness)」を観た。
主人公はある貧乏な黒人男性。
彼は一発当てるためにほとんど全財産をはたいて
サンフランシスコにおけるポータブル骨塩量測定器の独占販売権を取得する。
だが案に相違して機器はほとんど売れず生活は困窮を極める。
心身ともに疲れ果てた妻は彼の元を去り、アパートも追い出され、
息子とともにホームレス生活をしながら証券会社の研修プログラムを勝ち抜いて正社員となり
やがて全米屈指の証券会社を造り上げる。

ありふれたアメリカンドリームの物語だが
家族を窮乏から救い出すための彼の懸命の努力は全て裏目に出て
さらにこれでもかと繰り返し彼を襲う不運にもめげず
捨て鉢にもならず明るく前向きにユーモアを失わず必死に努力する彼も
映画の終盤には目も虚ろになり、精神に異常をきたしたかと心配するほど追い詰められたあと
ついに扉が開く。
彼の、真っ赤に充血した目から涙が流れるシーンは深く心を打つ。

この映画の中で不思議な印象を与えるのが、あの骨塩量測定器である。
ミシンのケースよりひと回り大きなその機器を彼は映画の中で常に持ち歩く。
老いた浮浪者に二度も盗まれ、車に跳ね飛ばされながら
文字通り彼は命懸けでその機器を取り戻そうとする。
「ジミヘンがギターを燃やすのを見たいんだ」と老浮浪者(ヒッピー)はいう。
彼はそれを「タイムマシン」と思い込んでいるのだ。
だが主人公にとっては1台売れれば一ヶ月の生活費を稼げる大切な商品だ。

売れる見込みのない機器の在庫を抱えた男。
その機器は、主人公の妻と映画の観客にとっては主人公の愚かさの象徴であり
老ヒッピーにとっては過去に戻るためのタイムマシンである。
ではあれは主人公にとって何の象徴だったのか。
なぜ彼は命を懸けてまであの装置を取り返さなければならなかったのか。
まるでそれを中心にして主人公を含むすべての登場人物が配置されているかのようなあの骨塩量測定器とは何なのか。

それを解く鍵は老ヒッピーのタイムマシンという言葉だろう。
主人公は映画の中で常に時間(お金)とせめぎ合っている。
未来の顧客との面会時間に間に合うために街中を走り回り
返済の時間切れでアパートを追い出され、託児所に迎えにいく時間がないため妻に泣きつき、
教会の無料宿泊所の応募に間に合うためにバス待ちの列に割り込んで怒鳴られ、
納税期限が切れてなけなしの全財産を差し押さえされ、
研修プログラムの応募に間に合うために警察の拘置所から全速力で走る。
まるで未来に追いつこうとするかのように。

最後の骨塩量測定器が売れたのと未来の扉が開くのが同時なのも印象的だ。
たくさんあった骨塩量測定器(タイムマシン)は遠い未来の暗喩であり
最後の一台が売れた時にようやく彼は未来に追いついたのかもしれない。


2012/08/31

崖の上のポニョについて考える。


























先日テレビで崖の上のポニョが放映されたけれども
その時に宮崎駿監督が映画公開時に以下のように述べたということを知った。
「俺の領域に土足で入ってきたのは嫌みだろうか、
きっと吾朗が5歳のときに、自分が仕事にかまけていたのがいけなかったんだ。
吾朗のような子を作らないためにこの作品を書こう」

ポニョは僕にとって宮崎駿監督作品の中でもとりわけよくわからない映画だった。
しかし今回遅まきながらこの発言に接して思いついたことを書いてみる。

ポニョのあらすじとはこのようなものだ。
海の魔法使いフジモトとグランマンマーレとの間に生まれた子供がポニョ。
いつも父のいない宗介はポニョと仲良くなる。
フジモトはポニョが宗介と仲良くなると大変なことになると考えポニョを宗介から引き離そうとする。
しかし宗介はポニョとともに船に乗って海に出る。
困ったフジモトはグランマンマーレに相談する。
グランマンマーレはポニョを人間にして宗介と結婚させれば良いという。
グランマンマーレは宗介に、ポニョはもと魚だがそれでも構わないかと聞く。
グランマンマーレはポニョに、人間になったら魔法が使えなくなるがそれでも構わないかと聞く。
二人は合意し婚約する。
フジモトは宗介におもちゃの船を渡し、いろいろすまなかったと言う。

これを上述の発言を元に翻訳するとこのようになる。
宮崎駿と芸術との間に生まれた子供がアニメーション。
いつも父のいない吾朗はアニメーションと仲良しになった。
宮崎駿は吾朗がアニメーションに興味を示すと大変なことになると考え、吾朗がアニメーションに関わることに猛反対する。
しかし吾朗は監督としてアニメーションの仕事を始めてしまう。
困った宮崎駿は芸術の神に相談する。
芸術の神は言う。吾朗にとってアニメーションはかつて夢や憧れにすぎなかったが、彼がそれを生涯の仕事として引き受けるならそれはそれで認めるしかないではないか。
芸術の依代として宮崎駿は吾朗に、アニメーションを生涯の伴侶とするというのは並大抵のことではないがそれでもよいかと聞く。
芸術の依代として宮崎駿はアニメーションに対し、おまえは吾朗にとってもはや夢や魔法ではなく厳しい仕事として立ち向かわなければならないがそれでもよいかと聞く。
二人は合意の上婚約する。
宮崎駿は吾朗に監督する権限を与え、今までいろいろすまなかったと言う。

ただし宮崎駿氏自身はこういった理屈で映画を作っているのではない。
むしろ彼の言葉を借りれば「脳みそに釣り糸を垂らす」ことで無意識の世界から釣り上がってくる、得体のしれない巨大な何物かを中心として物語は誕生し成長する。
ポニョが公開される前にNHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」で放映された宮崎駿氏のドキュメンタリーではポニョが巨大な魚の群れに乗ってやってくるイメージボードが長い苦しみの末に誕生する。
その絵を見ながら彼はうれしそうに言う。「ああ、恐ろしい。ああ、怖い」
そして言う「この映画の本質はあの1枚なんですよ。ほかのスケッチは全て現象であって、これが映画の最初の1枚なんです」。
さらにこのドキュメンタリーの中で彼は息子のゲド戦記の試写会の最中に、見るに耐えないという表情で会場から抜け出し「気持ちで映画を作っちゃいけない」と吐き捨てるように言う。そして映画に対する感想をインタビュアーに聞かれ「僕は自分の子供を見ていたよ」と答える。「え?」と問い返すインタビュアーに追いかけるように「大人になってない」と答える。
この、息子に対する謝罪とも言えるポニョという映画を作りながら、彼は依然として息子を許してはいないのだ。

彼は何に対して腹を立てているのか。
宮崎駿氏はグランマンマーレ(芸術の神あるいは獰猛で豊穣な無意識の海)と結婚したことで文字通り多産(アニメ、小さなたくさんのポニョたち)に恵まれたわけだが、この映画の中で吾朗氏が結婚した相手はアニメーションなのだ。
アニメーションと結婚することで多くの子供を生み出すことははたして可能なのだろうか。

内田樹氏は以前京大で映画論の講義をした時にたくさん映画を観たからといって映画批評が出来るようになるわけではないと言った。
料理人は包丁を使って魚を調理するが、映画を観て映画批評をするというのは魚で魚を調理しようとするようなものだと。

宮崎駿氏が吾朗氏の婚約に反対したのはその相手がグランマンマーレではなくポニョだったからではないか。








2008/09/01

わが心のマーティ・マックフライ


バック・トゥ・ザ・フューチャーでマイケル・J・フォックス演じる主人公マーティ・マックフライ。
普段おとなしくて穏やかな彼は、ただ一言「臆病者」という言葉を聞いた途端性格が一変する。
「何だと、もういっぺん言ってみろ!」
そして哀れな彼は無謀な勝負を受けて立ち、その命をむざむざ危険にさらすのだ。

誰でも心の奥に引き金がある。
普段忘れられたその場所をある日偶然誰かに触られて制御不能な激しい感情が突然暴発するような引き金が。

映画の中の彼はその欠陥を自覚し、やがて敵役のビフの挑発に乗らなくなるまでに成長する。
だがこの問題はそれほど簡単ではない。
なぜならこの引き金はその人の情動の最深部に直結していて、間髪を入れずに飛び出してくる反応はまるでアキレス腱反射のように生理的だからだ。

ひとは自分の力では統御出来ないものに出くわしたとき、「名付け」によって統御の糸口をつかもうとするが、僕もそれに習ってこの引き金に名前をつけようと思う。
おお、わが心のマーティ・マックフライよ!









2008/07/14

誰も知らない



僕はgenuineな関西人の御多分に漏れず「ごっつええかんじ」以来のYOUちゃんのファンで、彼女の出演した映画「誰も知らない」はいつかは観たいと思っていましたが、生来の出不精ゆえ映画館にも行かずDVDも借りず、こないだ深夜に放送されたこの映画を録画してようやく観ることが出来ました。

お昼に一人でGooTaを食べながら見始めたんですが画面に眼が吸い寄せられてしまい、そのまま最後まで映像から目が離せなかった(うそ。途中で亀の水槽を掃除した)。
見終わるとちょっと置いてきぼりを食った感じでぽつんとしてしまう。でもそれはたぶん僕がドラマを期待していたからだろう。
実話をもとにしたちょっとショッキングな話。それだけに、観る側は何らかのドラマ性を期待してしまう。でもこの映画にドラマは起きない。

僕は映画をあんまり観ないので、ディープな映画ファンには顰蹙かもしれませんが、この映画を観た翌日に車を運転しながらぼんやり考えていた。
ドラマチックな映画というものがある。それは起承転結がはっきりしていて、観た人が強いカタルシスを感じるもの、例えていえばシルベスター・スタローンの「ロッキー」のような映画。こういう映画にはドラマの時間を統率する神の視座がある。
神の視座というのは運命、テーマ、主題、意味性などと言い換えてもいいかもしれない。時間の流れには意味があり、全ての素材がクライマックスに向かって収斂する。

だが「誰も知らない」はドラマではない。
テーマがなくて、描写そのものが目的な行為ってなんだろう。
それは「デッサン」だ。この映画は例えていえば「丁寧なデッサン」だった。
「時間」はあるが中心やクライマックスはなく、ただ時間が流れる。
素材の一つ一つが最初から最後まで愛情を込めて描写される。
その描写がとても丁寧なので、僕らの目は画面に釘付けになる。

絶対者がいなくて、クライマックスがなくて、つまり時間に歴史性がなく、細部が丁寧に扱われ、時間はただ流れる。それはきわめて日本的で松尾芭蕉的。
この映画を見終わった翌日、僕は自分が是枝監督の目で世界を見ていることに気が付いた。この映画がくれたのは監督のきめの細かい慈愛で人生のディテールを観る「眼」だったような気がする。

2008/02/17

凡人の神



映画「アマデウス」でサリエリは「私は凡人の神だ」「お前たち凡人の罪を許す」という。
大好きな映画で何度も見たけれど、このサリエリの言葉の意味がずっとわからなかった。
サリエリは凡人の代表ではあるけれど、神ではないだろう。なぜ彼が自分と同じ凡人たちの罪を許すことが出来るのか。昨日NHK衛星第二放送で「アマデウス」のディレクターズカット版を放映していたので久しぶりに見て謎が解けた気がする。

彼 は自分が殺そうとしているモーツァルトから「僕は君を誤解していた。僕を許してくれ」と言われ、自分の罪の深さを思い知る。モーツァルトの死後、彼は自分 の罪の重みに耐えかねて神に罪の許しを請いたかったのだ。
だがその罪の許しを請うべき神はまたモーツァルトを悲惨な死に追いやり、信仰心の厚かったサリエ リを恥辱にまみれさせた神でもある。そんな神に彼は許しを請うことはできない。
それなら自分が神になればいい(狂気)と彼は考えた。
自分が神になることで自分の罪を許す。
凡人の代表である自分が凡人の神になることで自分の罪を許すとともに、世の中に満ちあふれている自分以外の凡人たちの罪を許す資格を彼は得たのだ。

もともとサリエリにとって神とは取引の相手であった。
彼は自分の童貞を含めた全てを捧げることで、神の栄光を褒め称える才能と栄光を自分に与えたまえと祈った。
自分の魂を売ることでこの世の栄光を欲するという行為が連想させるものがある。
それは「悪魔に魂を売る」という行為だ。
彼が全てを捧げた対象は神ではなく悪魔だったのかもしれない。
だが悪魔は契約違反を犯した。そこで彼は悪魔を見限り、自分が悪魔になりかわって復讐を行った。
その後彼は自分の罪の深さに耐えきれなくなり許しを望む。今度は神になりかわって「許しの神」になることで自分の罪を許そうと考えたのだ。



2008/01/14

主人公の死

伊丹監督の死にまつわる謎。
それは自殺も他殺も僕達を納得させないという点ではないでしょうか。
僕はかつて彼が自殺したことを自分に納得させるために文章を一つ書きました。
でもやっぱりしっくりしない。
それは彼と彼の仕事を愛していた人たちにとっての、共通の感情ではないでしょうか。
彼が自殺するはずがない。

他殺ならまだ納得できる。彼には敵が多かったし。
でも他殺であった場合に一番解せないのは彼の死に際しての、彼の周りの人たちの反応でした。
彼の一番身近にいて、彼をもっとも愛していた人たちは誰も声を上げなかった。
これは他殺です!徹底的に調べて下さいと。
自分たちの身に危険が及ぶことを恐れたのでしょうか。
それは考えられない。
大江氏も、彼の妻も、こういった悪に対しては徹底的に戦うタイプの人たちです。
それならなぜ彼等は口をつぐんだのか。

監督は自分の身を護るためにどうすればよいかを確実に知っていた。
にもかかわらず彼はあっけないほど簡単に死んだ。

僕には彼の最後の瞬間が見える気がした。
部屋に殺し屋が入ってきたときに監督はまったく驚いていない。
それがはっきり見える。
彼はこう言ったに違いない。

ドアが静かに開いて二人の殺し屋が部屋に入ってくる。
監督は振り返って言う。
「やあ。お待ちしていましたよ。さあ、始めますか」

このものの言い方ほど彼に似つかわしい言葉はあるだろうか。
彼が監督としてこのシーンを撮っていたら、脚本で主人公にこれ以外の発言を許すはずはないだろう。

僕にとってこの話の解決の糸口は、彼のこの態度だった。
そうか。彼は自分の死をおとなしく受け入れたのだ。

それからは簡単だった。
取引があったな。
裏の世界の人も妻を脅迫の材料にした方が有効だと考えた。
あんたが死んでくれたら、嫁さんは許してやるよ。それで彼は取引に応じた。
彼の死は「主人公の自殺」というドラマでした。
他殺とわかったのでは、加害者に迷惑がかかる。それはあくまで自殺でなければならない。
そこで彼は一応自殺として世間を納得させるためのお膳立ては整えた。
「要するに、公権が自殺として処理しやすいような程度のお膳立てでよいのだ」
そして彼は彼を遠くから愛していた人たちにヒントを残していった。
僕の死を納得できない人たちは、このずさんなお膳立てが鍵だ。わかりたい人は気付くがよい。

彼が腹を括っていたことは真行寺の言葉にも表れている。
「君はまだ生きる可能性があると思っているね。
だが人生は実に中途半端な、そう、道端のどぶのような所で突然終わるもんだよ」

ただ彼は加害者を恨んでいない。それは映画を見ればよくわかる。
ビワコを狙う人たちを、ちゃんと人間として、丁寧に描いている。それぞれのひと。それぞれの事情。
大江氏の「取り替え子」を読むと、監督は青年期に松山でひどい暴力の被害に遭っている。
それは彼のトラウマとなり、暴力に屈することなく闘うことが、彼の仕事のテーマの一つになった。
彼はそれがあくまで彼自身の事情によるものであることは知っていた。
精神分析家岸田氏との関わりを通じて、彼は自分のトラウマをはっきり自覚していたはずである。
だから彼はそれを乗り越えるために、暴力に屈しない映画をいくつも作った。
彼自身が暴力の悪夢を乗り越えるため、また暴力に苦しんでいる世の中の人々が、再び顔を上げて前を向いて生きていけるように。
それは加害者が憎いからではない。彼は彼等の事情も知っている。彼の映画のせいで彼等が生きづらくなることも。
だからある意味で、彼は自分の製作物に落とし前をつけたのだ。
そして彼は従容として死を受け入れた。

ビワコもそれを知っていた。彼が彼女を救うためにみずから死を選んだことを。
彼の死を無駄にしてはならない。彼は命を賭して彼女の生命を護ったのだ。
そのためには、彼が脚本を書いた最後の映画に「これは他殺だ」と叫んではならない。
彼は命をかけて自分を救ったのだから、私がしっかりと生きていくことが、彼の供養そのものなのだ。
その後のビワコの毅然とした生き方は、彼が彼女に託した使命なのだ。

以上は僕がようやくたどり着いた彼の死の謎を解く物語です。
ただしこれはあくまで僕が納得するための物語です。
それぞれの人が、それぞれのお話を考える。彼の死を胸に納めるために。




2008/01/03

仮説。そしておそらく解答。

  
暮れのNHK衛星第二放送で伊丹十三特集があった。
録画していたマルタイの女を今日見た。

そうか。
彼は愛するもののために命を絶った真行寺自身なのだ。
彼はビワコを守るために従容として死地に赴いたのだ。
ビワコの毅然とした生き方は、彼女の命を救った伊丹が、彼女に課した使命なのだ。
やっと謎が解けた気がする。

ドアが静かに開いて二人の殺し屋が部屋に入ってくる。
伊丹さんは振り返って言う。
「やあ。お待ちしていましたよ。さあ、始めますか」

2007/09/09

芸と人生の終わり

映画「あげまん」の舞踊監修をされた猿若清三郎氏は、伊丹さんに花柳界のあるエピソードを話されたことがある。
猿若氏が芸達者な高齢の芸者に「このお仕事をいつまでおやりになるつもりですか」と尋ねたところ
そのひとはこのように答えたという。
「一生です。でも一つだけ辞めるきっかけがあります。
それはお座敷で立ち上がるときに、床やお膳に無意識に手をついたときです。その時が私の引退」
伊丹さんはこの話に興味を示し、早速脚本に活かしたいと答えた(「伊丹十三の映画」新潮社より)。

ゆかしく、潔い話である。芸を志すものにとっての理想かもしれない。
僕はその話を読んだあと、ぼんやりとお風呂で考えていた。
そしてふと気が付いた。
これは、自分の芸の終焉は自分が決めるという意思の表明なのだ。
厳しい自己統率と現実とのぎりぎりのせめぎ合いの中で、老いという現実があるべき自分とのギャップを生み出したとき
そのギャップがこの線を越えたら辞めます、という表明なのだ。
逆に言えば、老いが芸を劣化させてもこの線を越えなければ誰に何と言われようと辞めないという意思の表れであり
みんなが辞めないでと言っても、この線を越えたら私は自分から辞めますという表明でもある。
彼女は、いつまで続けるか、いつ辞めるかは、私が決めるのだ。その事に関しては誰にも口を挟ませないと言っているのだ。

この話で思い出すエピソードがもう一つある。
それは僕が大学生の時に読んだ雑誌ブルータスのヘミングウェイ特集の中の一節だ。
ヘミングウェイは親友のホッチナーにある時こう言った。
"Hotch, if I cannot exist on my own terms, then existence is impossible.
Do you understand? That is how I lived and that is how I must live."
「ホッチ、俺は自分の好きに生きてきたし、それが無理なら生きていくつもりはないんだ。
わかるか?俺はそんな風に生きてきたし、これからもその考えを変えるつもりはない」
そしてほどなく彼は猟銃自殺を遂げた。

伊丹さんは完璧主義の人だった。
どんな小さな事もなおざりにせず、徹底的にあるべき理想を追求する人だった。
徹底して理想を追求する人は、逆に言えば理想通りでない現実に我慢ならない人だったということでもある。
死の直前、彼は普段と全く変わらず、悩んでいる様子は微塵もなかったと、彼と交流のあった人たちは一様に述べている。
それが自殺であったなら、彼は事も無げに死んでいった。
まるで去っていく部屋の電灯を事務的にパチンと切るように。

僕は自己統率の人がみんな自殺すると言っているのではない。
それに伊丹さんの死は、やはり他殺だったのかもしれない。
でももし彼の死が自殺だったとしたら(そしてその疑念は最近僕の中に芽生えたのだ)、
僕は僕のこころの中の伊丹さんを埋葬するために、ある物語が必要なのだ。
ただこの仮説は物語としては弱い。
彼は確かに完璧主義の人だったけれども、自分の周りの人たちには非常に優しかった。決して怒鳴ったりしなかったのだ。
内心はいらだっていたかもしれないが、出来ない人に対しても、基本的に優しいまなざしを向けていたからである。
彼には、出来ないことを許す気持ちがあったのだ。
そんな彼が自分をも許していなかったとどうして言えるだろう。

しかしこの老いた芸者の話は、全く手がかりのない彼の死の重要なヒントのような気がする。
それで誤解を招くことを承知でこのような文章を書いた。

2007/08/10

和久平八郎の「現場」

定年前の老刑事、いかりや長介演じるご存じ「わくさん」。
彼が生涯を過ごした「現場」。
現場とはどんなところか。
現場とはいつも不測の事態が起きる場所。
同じ事件はひとつとしてなく、
どんな小さな事件も全力を注がなければ解決は得られない。
(全力をつくしたとて満足のいく解決が得られるとは限らない)
イチローが王監督に「バッティングが簡単だと思ったことがありますか」と聞いたとき 王監督はこう答えたという。「そんな時期は全くなかった」。
それが現場。
いつも現場にいて、現場の空気を吸っていること。

2007/07/25

神社を建てましょう。


Juzo Itami, originally uploaded by slowhand7530.

伊丹さんの本と出会ったのは大学一年の頃だった。
それからは寝ても覚めても伊丹十三だった。
何度も読むうちに文章も暗記してしまった。
僕の脳全体が、当時この人一色に染められていた。
それは恋のようなものだった。
僕の人生ではいろんな人に強い感化を受けてきたけれど、ある時代に僕の脳を、文字通り完全に一色に染めぬいた人たちは
ビートルズ、坂口安吾、チェスタトン、伊丹十三、村上春樹、河合隼雄、内田樹の7人である。
内田病にかかってからはまだ5年なので、今後のことはわからないが、脳に染みついたこの人たちの色はおそらく生涯ぬけないだろう。

あれから27年も経つけれど、伊丹さんはふいに僕の心に現れて僕を驚かせる。
以前友人に伊丹映画のメイキングDVDを貸してあげるといわれたが、観たらまた伊丹さんの熱にうかされるに決まっているので断った。
僕の中では伊丹さんは終わっていない。人間としての伊丹さんと、伊丹さんの残した作品を愛している人々にとって、伊丹さんはずっと終わらないだろう。

伊丹さんの最後が、やはり問題なのだ。あれはいったい何だったんだろう。
事件当時、僕の中ではあれは殺人以外にはあり得なかった。
大江健三郎の『取り替え子』を読んで、文章からは全く殺人の匂いがしないので自殺だったのかもしれないと思うようになった。
だが彼を遠くから愛していた人々にとって、あの事件は今も心の中の黒いしこりである。

どうしたらいいのだろう。
無念の死を遂げた伊丹さんと彼を惜しむ人々のために、
僕は伊丹十三記念館の横に伊丹神社を建てて祀ってもらうしかないと思う。
いや、冗談じゃなく。

twitter