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2012/09/28

土俵間空間の住人たち

cloudless sky


内田百閒が山陽本線の、新しい特急の処女運転に招待された。
岡山を通過したあたりで新聞記者が乗り込んできて百鬼園先生にインタビューを始める。

「大阪から乗られましたか」
「いや京都から」
「いかがです」
「何が」
「沿線の風景に就いて、感想を話してください」
「景色の感想と云うと、どう云う事を話すのだろう」
「いいとか、悪いとか」
「いいね」
「しかしですね、今、日本は戦争か平和か、国会は解散と云うこう云う際に、
この様な列車を走らせることに就いては、どう思われますか」
「そんな事の関聯(かんれん)で考えたことがないから、解らないね」
「更(あらた)めて考えて見て下さい」
「更めても考えたくない」
「国鉄のサアヴィスに就いては、どうですか」
「サアヴィスとは、どう云う意味で、そんな事を聞くのです」
「車内のサアヴィスです」
「それは君、今日は普通の乗客ではないのだから、いいさ」
「サアヴィスはいいですか。いいと思われますか」
「よくても、いいのが当り前なんだ。よばれて来たお客様なのだから」
「広島へ行かれましたか」
「行った」
「いつです」
「最近は一昨年」
「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」
「解りませんな」
「もういいでしょう」
漸く(ようやく)隣席から起ち上がった。
「お忙しい所を済みませんでした」と云って向こうへ行った。
大阪の甘木君が、にやにやしながら、通路に起っている。
「僕はちっとも忙しくなかった。おかしな事を云いますね、甘木さん」
「口癖なんですね、お疲れの所を、と云う可きだったな」
それから広島に着き、又ホームで一騒ぎして、人が出たり這入ったりして、広島を発車した。
ちくま文庫 内田百閒集成1春光山陽特別阿房列車より。


不思議な会話である。
今日最後のESWL(尿管結石の破砕治療)を受ける前に待合室でこの箇所を読んでいて、ちょっと途方に暮れてしまった。
ここでは、一体何が起こっているのだろう。
僕は治療を受けながら、と言ってもただ寝転んでいるだけなのだが、ぼんやりとこの問題について考え続ける。

普通の人なら新聞記者に対してこんな態度はとらないだろう。
質問者の意図を読み取った上で、
肯定するにせよ否定するにせよ時尚を配慮しながら注意深く返答することだろう。
だが彼はそうしない。

それは単に新聞記者という存在が疎ましいというよりも
そもそもまるで、質問の意図が理解できないという様子である。

こちらからすれば新聞記者の意図は明白である。
当然百鬼園先生もその意図は丸見えのはずで、
おそらく彼はそれをわかったうえでしらばっくれている。
そして「あなたは何を聞きたいのか、さっぱりわかりませんな」という阿呆を演じているわけだが
記者にはその裏が読めない。
なぜ記者に裏が読めないのか、それこそが百鬼園先生の疑問であり苛立ちであって、
そして苛立っているからこそ彼の返答は更に無愛想だ。

なぜ百鬼園先生は記者の質問に答えようとしないのか。
それを考えるヒントはこの会話の中に見える。

「原爆塔を見られましたか」
「見た」
「その感想を話してください」
「僕は感想を持っていない」
「なぜです」
「あれを見たら、そんな気になったからさ」
「その理由を話して下さい」
「そう云う分析がしたくないのだ。一昨年広島へ来た時の紀行文は書いたけれど、
あの塔に就いては、一言半句も触れなかった。触れてやるまいと思っているから、触れなかった」

触れてやるまいと思っているから・・・。
それはつまり原爆ドームが、彼にある特定の、人として当然抱くはずの感想を
強く要求してくるのを感じたからだろう。

それはまるで強引に土俵に入るように仕向けられて、
一旦土俵に入ってしまったら相撲を取らされてしまうのを彼が嫌ったからとも読める。

こういった、強引に土俵入りを促すものに対して頑固に拒否するという彼の態度は一貫している。
ソフトバンクのCFに出てくるトミー・リー・ジョーンズ演ずる宇宙人のように
地球上に無数に存在する土俵の、その外側から土俵のなかの不思議な光景を眺めるというのが彼の基本的なスタンスなのだろう。

内田百閒は土俵間空間の住人である。
そう考えると、すっきりする。
ここには阿呆や死者たちが跳梁跋扈していて、彼はそういった異人たちと親しい関係にある。

村上春樹は今日の朝日新聞への投稿で、先ほどの僕の言葉に翻訳すると我々は土俵間空間での対話を続けるべきであって、お互い自分の土俵の中に相手を引きずりこもうとするべきではないと述べている。
それは本当に正しいことを言っているのだが、対話の相手が土俵の外に出ないことを決意していてしかも土俵間空間をすべて自分の土俵の中に取り込むことで土俵間空間がなくなってしまうかもしれない場合に彼はどこに立っていられるのだろうか。
我々は最終的に土俵を確保することを通じてしか、土俵間空間を維持できないのではないだろうか。
また更に言えば僕個人はこういった土俵間空間からの視点を愛する方に属するけれども、かつて村上春樹が育てた、土俵間の住人を個人的に内面から支える「土俵間住人の倫理」といったものを明らかに強大な土俵に属する朝日新聞というメディア内で発表するというのはどうなんだろうか。








2011/07/03

Let's get cool.

温暖化しているのは実は僕らの頭の中だったり。
ちょっと頭を冷やして違う意見も聞いてみよう。
政治的な匂いが嫌な人は上から4番目の動画だけでもどうぞ。
































































































永く生きていてようやくわかってきたことは
世の中には、あるいは生きて行く上で
わかりやすい答えや、簡単な答えなどというものはないということだ。

若い頃や考えの足りない頃は
この世界で何か問題にぶつかるたびに
そういった問題を解決するための何かビッグな答えというものがきっとどこかにあるにちがいない
今の自分には見えていないけれども
なにか答えがあるのだろうと思っている。

それで誰かに実はこれはこういうことなんだよと教えられると
それで世界の問題が全ていっぺんに解決するかのように入れ込んでしまう。
それが実は自らが創り出したドアを開けるためだけの自らが創り出した鍵でしかなく
その鍵はそのドアにしか使えないとわかるのにずいぶん時間がかかって
そんなことを繰り返しながらいろんな考えに免疫をつけていくというのが大人になるということなんだけれど

そういう訓練を自らに課してこなかった人は
かんたんにヤラれてしまう。
呪われたエネルギーを持つ悪い人達は
そういった人達を感情という道具でゴッソリさらっていって好きなように利用する。
だから僕達が熱に浮かされたようにみんなで同じ方向を向いているときは
冷静になるということがとても大切な事なんだ。

2010/05/22

幸せなセージ

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趣味とか芸術だと、いろんな見方や好みがあっても許されるし、
どちらかというと少数派の立場が尊重される傾向があるけれども、
政治に関することはなかなかそうはいかない。

なぜかというと政治の世界では仮にいろんな意見があっても、
最終的にハンドルを握るのは数の多い方や権力の強い方であり、
少数派や権力の弱い方は黙らざるを得ないという、一かゼロかのデジタルな結論に収束してしまうからだ。

趣味や芸術だと相手の立場や発想が尊重されるのに
政治においては相手の意見をどうやって否定するかに重心がある。
相手の意見を否定するために相手を馬鹿にしたり相手の立場を無視したりする。
これが最終的には殺し合いと戦争に行き着く。

繰り返しになるが、なぜ政治に関する意見のぶつかり合いが基本的に不愉快なのか。
それはいとも簡単に相手の全存在の否定のし合いや泥団子の投げつけ合いになってしまうからだ。

政治の話をしながら苦しい気持ちにならない方法はないのだろうか。
やっぱり関西人モードしかないだろう。

「あほちゃうか」
「うるさい。おまえこそあほや」
「たしかにわしはあほや」
「なに!わしのほうがもっとあほや」
「いやいや、あほの王座はわしのもんや」
「いやいや、このチャンピオンベルトは誰にもわたさん!」
「あほらし。めしでも食いに行こか」
「はらへったな」

いやとにかく、政治に関することは真剣にならんようにしよ。

2010/04/25

悪が存続していくための唯一の条件

むかし僕が高校生で、毎日を悩みの渦の中で暮らしていた頃、ロブ・グリエの「消しゴム」という小説の中の「彼は青二才のようにたっぷりと悩んでいた」という一文を読んで、そうか、悩みというのは普遍的な事象ではなくて、単に僕が青二才だからなのだと目がさめたことがある。

もちろん僕はもはや青二才ではないので、政治というものに淡い期待を抱いたりしない。良い政治というものが天然記念物のように現れることが絶対にないとは言わないが、そもそも政治というのはパワーと同義語であり、良い人は基本的にパワーを持っていない以上、政治と悪とは同義語なのだ。

政治が悪でも構わない。
我々自身の内にさえ悪はあるのだから。
だがその悪でさえ、それが存続していくためには条件がある。

人々の財貨をむしばんでも、心をむしばんではならない。

それが、この世で悪が存続していくための唯一の条件である。
それさえ守っていれば、悪は生きながらえることができる。

さて、医療の世界では、本人の心に大きな歪みがあるのに、本人には病態が発現せず、まわりの家族や友人に病気が発症するという現象がしばしば見られる。
本人の業が強すぎて、みずからの発症を許さない分、周りの人々が発症を引き受けるのである。
政治の世界においても、政治家がみずからの高邁な理想や名誉欲のために何かを隠したり私財をため込んだりすることは、まわりにそれほど大きな影響を与えるわけではない。
だがある種の言動は、まわりの人々の心を損なう。
そしてそれは時に取り返しのつかないほど深い障害をまわりの人々に与える。
えてしてまわりの人々はそのことに無自覚である。
自覚できないために、それはしばしば魂の病として発症してくるのだ。





2010/03/04

政治的ということ

「ヒマラヤの氷河が2035年までにみな解けてしまうという予測には根拠がなかった」
「アフリカの農業生産は20年までに半減するという予測も間違いだった」
「アマゾンの熱帯雨林はこのままだと40%以上が危機に直面するという記述にも科学的根拠はなかった」
「オランダの国土は地球温暖化のためにすでに55%が海抜ゼロ以下になったという発表もミスで、実際にはまだ26%だった」

僕たちは直接ヒマラヤへ行って氷河の厚みを測ったりアマゾンの熱帯雨林面積の年次変化を観測出来ないので、こういった類のアナウンスメントが出るたびに右往左往してしまう。
一体何を信用すればいいのだろう。

政治というのは小学校の学級委員会の規模が拡大したようなものだと考えていると、様々なニセ情報や黒幕や陰謀や裏金の話を見聞するたびに、なぜ彼等はクリーンな仕事が出来ないのかと憤ってしまうけれども、そもそも政治というのはそういった暗部を抜きにしては語れないし、いやむしろ利権と政治は同義語なのだと考えればいろんな事がすんなり腑に落ちる。
きれいな政治というものは存在しない。
それは「きれいなゴミため」が存在しないのと同じく形容矛盾なのだ。

なぜそういうニヒルな発想の方が腑に落ちやすいかは、人類が政治というシステムを導入した経緯を考えればわかりやすい。
人間が自然の暴力に裸でさらされていた頃、自然の猛威に対処するためには一極集中型の圧政的な統治システムが不可欠だった。
だがその後自然に対する人間の統御力がアップするにつれ、統治を一極集中する必要がなくなり、王政から貴族制、貴族制から官僚制へと統御の中枢は分散していく。
それでも基本的に政治というのはその他大勢をコントロールするパワーシステムそのものであり、政治のルーツは「話し合い」ではなく「パワー」なのだ。

大きなパワーを持っているのは誰か。

幸せな人は静かにしゃべる。
怒鳴ったり大声を上げるのは欲求不満がある人、怒っている人、呪っている人だ。
もちろん世界の不合理に対して正義のために立ち上がる人もいるけれども、穏やかな人はたいていの不都合を堪え忍ぶ。
正義の人は普段は黙って雪かき仕事をしているもので、それでもそういう人が立ち上がるときは、あまりきれい事を言わずに黙って立ち上がるものだ。
そういう人が立ち上がるのはよっぽど腹に据えかねる事態があるわけで、そんな事態はそうそうあるものではないし、そういう世紀に一度のイベント以外で、普段からわぁわぁ声を荒げて、実際にシステムを変革しようとするのは、何らかのマイナスのエネルギーが裏にあることのほうが多いと考えるべきだ。

普通の人々は日々を慎ましく忍耐強く穏やかに暮らしている。
良いことを良い姿のままで進めていくだけの強いパワーは、良い人はあまり持っていない。幸せなのだから。
この世界で物事を強く動かしていくのは、残念ながらどちらかといえば暗いエネルギーの方だ。
汚い包装紙にくるまれた汚い利権にうんざりしていた人々は、きれいなデザインにくるまれた負のパワーに簡単にさらわれる。
そういうのを何と言うかというと羊頭狗肉というのである。

いや、僕は今の政権がどうこう言っているのではない。
きれいな政治というのは形容矛盾なのだから。
ただ最も悪いものはしばしば最も美しい姿でやってくるということを心にとどめておくべきだと思う。

2008/07/21

新聞記者になったら



新聞記者になったら僕はペンとカメラをもって世界中を駆けめぐり巨悪に光を当て虐げられている弱者に光を当てるんだ。ぼくは社会の正義のために闘うんだ。そんな熱い思いで新聞社に入ったら先輩が言った。「いろいろあるわけよ」


ペンを持つものはいろんな思惑に配慮しなければならない
弱者が虐げられている裏には大きな政治的力が働いていたり
社会のシステムが必要とし社会のシステムの中で重要な役割を担っている巨悪があったり
構造化された弱者を救うことはとてつもなく困難だったり
巨悪の当事者は社会構造の中でみずから進んで悪の役割を買って出たわけではなかったり
事件のほとんどは悪意を契機にしていなかったり
いわれなき当事者を生け贄として血祭りに上げることが新聞社の仕事の大きな柱であったり
スポンサーの意向を無視しては記事を書けなかったり
将来の日本の行く末を視野に入れることで記事の内容を曲げたり消したりしなくてはならなかったりそれが実は政治的な圧力のせいであったり政治的な圧力が特定の利権団体を利するためであったりそれを書くことが許されていなかったり
新聞社の中での力関係を配慮しなければならなかったり
新聞社の中に大きな悪が隠れていたりそれを書くことはもちろん許されていなかったり
新聞社を首にならないために黙っていなければならなかったり
政治家に情報を提供してもらうために政治家の不利になることを書けなかったり
スポンサーに便宜を図らざるを得なかったり
政治の流れがすごく見えているのにそれを書くことが許されていなかったり
自分でも書いた記事があまりに薄っぺらでほとんど内容は何もないということを自分でもわかっているけどどうしようもないんだこういうふうにしか書くことを許されていないんだと自分を慰めるしかなかったり
ジャーナリズムの世界そのものが清濁併せのむこの社会の縮図そのものだったということや
何も物を言えない自分自身が清濁併せのむこの社会の縮図そのものだったということや
でも何の根拠もなく自分はジャーナリストだと自負しなければやっていけなかったり
路上で雑談するおばさんや銭湯でくつろいでいるおじさんよりもこの世界の本当のことをしゃべることが一番許されていない職業は実はぼくら新聞記者だったということに気が付いたり
社会正義という商品を売るのが商売なのに社会正義から最も遠い商品しか提供出来ていないことのつらさに日々耐えなければならない。
全ての大人たちはそうしている。
特に「きれいごと」に近い仕事をしている大人たちは。

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