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2017/02/18

scene

scene
Nikon D800E Ai Nikkor 50mm f/1.2S


旅に出よう。
鞄にレンズを
二つ三つ入れて

旅に出よう。
ポケットに甘い香りの
煙草をしのばせて

旅に出よう。
内なる傷は
そのままに

旅に出よう。
くびきにひしぐ
わたしゆえ















2015/06/18

芭蕉のセルフポートレート

desolate

風邪を引いて寝込んでいるせいか、ふと「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という芭蕉の句を思い出した。夢というと現代では肯定的な意味合いが強いが、同じく芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」にも見えるように、当時の日本人にとって夢というのはいずれ消え去ってしまう、叶うことのない儚い念のようなものだったろう。

そしてこの句の中には読み過ごすことの出来ない単語がひとつ含まれていて、それは駆け巡るという言葉だ。芭蕉は、夢は枯野をさまようでもなく、枯野を漂うでもなく、枯野を散歩するでもなく、ましてや枯野に佇むでもなく、「駆け巡る」と言っている。駆け巡るというのは、抑えきれぬ衝動で走り回る様子を表している。
枯れ野とは何も無い荒野のことだから、つまり「夢は枯野を駆け巡る」というのは叶うことのない妄執が、何も無い荒野を、抑えきれぬ衝動で走り回っている様子を描いていることになる。
芭蕉という人は、そういう業の深い人だったということなのだろう。

僕は以前俳句というのはスナップショットで、芭蕉の旅は、ひょっとするとカメラを携えた撮影旅行だったのではないかと述べたけれども、つまり彼は貪婪なスナップシューターで、何も無い荒野だからこそ、かえって撮りたい獲物を探す妄執を駆り立てられるわけで、そういう深い業を負った自分が今は病に臥せっている。
この句はだから、写真でいえばセルフ・ポートレートということになるのだろう。



2013/08/15

The Naming Of Cats

さて「写真にタイトルを付けるのは難しい」で思い出すのがT.S.Eliotの詩です。
たしか伊丹十三が「再び女たちよ!」のなかで冒頭のパラグラフを紹介していた。
それを僕なりに訳してみたいと思います。

The Naming Of Cats by T.S.Eliot

The Naming of Cats is a difficult matter,
It isn't just one of your holiday games;
You may think at first I'm as mad as a hatter
When I tell you, a cat must have THREE DIFFERENT NAMES.
First of all, there's the name that the family use daily,
Such as Peter, Augustus, Alonzo or James,
Such as Victor or Jonathan, George or Bill Bailey—
All of them sensible everyday names.
There are fancier names if you think they sound sweeter,
Some for the gentlemen, some for the dames:
Such as Plato, Admetus, Electra, Demeter—
But all of them sensible everyday names.
But I tell you, a cat needs a name that's particular,
A name that's peculiar, and more dignified,
Else how can he keep up his tail perpendicular,
Or spread out his whiskers, or cherish his pride?
Of names of this kind, I can give you a quorum,
Such as Munkustrap, Quaxo, or Coricopat,
Such as Bombalurina, or else Jellylorum-
Names that never belong to more than one cat.
But above and beyond there's still one name left over,
And that is the name that you never will guess;
The name that no human research can discover—
But THE CAT HIMSELF KNOWS, and will never confess.
When you notice a cat in profound meditation,
The reason, I tell you, is always the same:
His mind is engaged in a rapt contemplation
Of the thought, of the thought, of the thought of his name:
His ineffable effable
Effanineffable
Deep and inscrutable singular Name.


「猫に名前をつけるのは難しい」T.S.Eliot

猫に名前をつけるのは難しい
それはとても休日の
気楽な片手間仕事とは言えない
君は僕が気が狂っていると思うだろう
猫には三つの名前が必要だと言ったら

まずもって彼には家族用の名前が必要だ
ピーターとかアウグストゥスとかアロンソとかジェームズとか
ビクターとかヨナサンとかジョージとかビル・ベイリーとか
そういった名前はすべて
普段の呼び名として理にかなっている

もう少し愛らしくて凝った名前が欲しいなら
雄猫には雄猫の 雌猫には雌猫の
プラトーやアドミタス、エレクトラやデメテルなんてのもある
でも結局それらはみんな
普段用の名前と言っていいだろう

しかし猫にはそういった名前とはべつに
もっと特別な威厳のある名前が必要で
そうでなくては猫としても
尻尾を誇らしげにおっ立てたり
ひげをピンと伸ばして得意気になったりできなくて困るじゃないか?
少しばかり例を挙げるとすれば
ムンクストラプとかクワックソとかコリコパットとか
ボンバルリーナとか えーとその ジェリーローラムとか
まあそういったほかを探しても二つとない名前だよ

しかしもってなおさらだが
まだひとつ猫には名前が必要なのだ
そしてこれこそ君には思いつくはずもなく そもそも人知を超えていて
猫は知っていても教えてはくれず
たまに彼らがもの思いにふけっているように見えるそんなとき
言っておくがそんなときはいつでも
まさに彼らは恍惚としてあることに思いを巡らせている
「僕の本当の名前はね 本当の名前はね 本当の名前はね・・・」
もう少しで言葉に出来そうで出来ない 出来なそうで出来そうな
底なしに神秘的ですばらしい
その名前



2012/09/12

1秒光年の孤独

Untitled

家人が寝静まった夜ひとりでソファに寝そべって天井を見ていると
青臭い感傷に見舞われることもある半世紀も生きたというのに
やがて私は跡形もなく消え去って世界は営みを続けるなんて

私は自分のお話を生きている
さいころを積む営みのように
昨日は8個だが今日は12個積めたとか5個しか積めなかったとか
そんな物語

そして例えば頭の中の小さな動脈瘤が破れるように
私の知りえない物語が突然私の物語を抹消するまで
羽化することのないカイコのようにまゆの中で乾いていく

わが墓いつか苔むして
文字さだかにも読めぬ日は
誰か知るべき君とわれ
住みてこの世に逢ひしことを(独歩)

おおい、でもこんなひともいるぞと
明日のことがわかったり動物と会話ができたり
自分の中と外の物語が繋がっているひともいるのだと

2009/11/25

写真家としての松尾芭蕉

20080418 002

よく見れば なずな花咲く 垣根かな

芭蕉の俳句です。
写真を撮るようになって、ものの見方が少し変わりました。
例えばこの俳句は、
垣根をよく見たらナズナの花が咲いていた。
というだけの、「それがどないしたっちゅうねん!」系の俳句ですが、
そして芭蕉の俳句は、あの有名な古池や~にしても、同じつっこみをしたくなる系統の俳句ばかりなんですが、写真の目で見ると見え方が変わります。

まず冒頭の「よく見れば」。
「よく見る」というのはどんな行為でしょう。
小学校の先生が理科の実習で生徒を校外の原っぱに連れて行くところを想像しましょう。

「先生!きれいな花が咲いています」
「よく見てみなさい。花の上にテントウ虫がいるよ」

よく見るというのは、身を乗り出して対象にフォーカスをあわせる行為です。
ここで芭蕉はズームレンズを使っていると想像されます。
対象をズームレンズでアップすると同時にピントを合わせたので、遠くでぼやけていた対象がぐっと近づいて画像がシャープになりました。

「なずな花咲く」。
ピントの合った画像はナズナの花。ここで芭蕉はナズナの花のディテールの美しさに心を奪われています。
これはマクロレンズです。

最後に「垣根かな」。
ナズナのマクロに心ふるわせた芭蕉は、次にナズナの生えている垣根をパンで捉えています。これは35ミリ位の広角レンズです。

つまり芭蕉はズーム、マクロ、広角の三種類のレンズによる視覚変化をこの一句にまとめ上げているとも言えます。
彼は単に垣根でナズナが咲いていたという事実の叙述を行っているのではありません。
視覚の変化を通じて心の動きを表現しているのです。
俳句そのものには心の「こ」の字も記述はありませんが。

さらに言えば、おそらく芭蕉は最初縁側で寝ころんで肘枕で庭をぼんやり眺めていたと想像されます。
やがて芭蕉は小さな白い点々に気が付く。
寝転がっていた芭蕉はやおら身を起こし、縁側に座って目を凝らしてみると、それはナズナの花。
そのナズナの花は、何もない、どうということもないと見過ごしていた古びた垣根に咲いていたというわけです。

まとめると、カメラのレンズの変化が作者の視覚の変化や作者の姿勢の変化(横臥→坐位)を連想させ、視線の変化を通じて作者の発見の行程と心の動きを表現しているということになります。
言葉にすると、いと興ざめですが(笑)。

その目で彼のほかの俳句を見てみると、視覚の動きで心の動きを表現するというのが彼の作法のひとつであったことが伺われます。

古池や 蛙飛び込む 水の音

古池や
これは50mmの標準レンズ。
蛙飛び込む
これはズームマクロ。
水の音
波紋が広がる池の広角のショット。


荒海や 佐渡に横とう 天の川

荒海や→50mm標準レンズ。
佐渡に横とう→望遠。
天の川→16ミリ位の超広角。

視覚の変化を面白がる芭蕉の旅は、ひょっとするとカメラを携えた撮影旅行だったのかもしれません。
そのように想像すると、三里に灸を据えていそいそ出立の準備に心を躍らせる芭蕉の心持ちが手に取るようにわかる気がします。



2009/07/17

おいしい水

Catharanthus roseus
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Your love is rain
My heart the flower
I need your love or I will die
My very life is your power
Will I wither and fade or bloom to the sky


SDIM2940
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Aqua de Beber Aqua de Beber camara'
Give the flower water to drink
Aqua de Beber Aqua de Beber camara'
Give the flower water to drink


SDIM2944
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The rain can fall
On distant deserts
The rain can fall upon the sea
The rain can fall upon the flower
Since the rain has to fall let it fall on me


Agua de Beber
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Aqua de Beber Aqua de Beber camara'
Give the flower water to drink
Aqua de Beber Aqua de Beber camara'
Give the flower water to drink


SDIM2963
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あなたの愛は降り注ぐ雨
私は雨を待つ花
あなたの愛なしで私は生きれない
あなたの愛だけが私を生かす
枯れるも咲くもあなた次第

私を生かす水 私を生かす水
花に水をやるように
私を生かす水 私を生かす水
私に愛を注いで欲しい

見たこともない砂漠に雨が降る
行ったこともない海に雨が降る
見たことも行ったこともないものの上に降るというなら
どうか私の上に降って欲しい

私を生かす水 私を生かす水
花に水をやるように
私を生かす水 私を生かす水
私に愛を注いで欲しい

"Aqua de beber" by Antonio Carlos Jobim

2008/09/21

「あなたはそこに」の構成を考える

ブログにアップした谷川俊太郎さんの詩「あなたはそこに」。
コメントをいただいたTiM3さんへのご返事が長くなってしまったので
ブログの本文としてアップさせていただきました。
あっ、それからこの詩を心の宝石として大事にとっておきたい方は、ぜひ以下の文は看過して下さい。

TiM3さんありがとうございます。
>あなたの死すら、わたしを生かす
のくだりがグッと来ましたね!
そうなんですよ。目の前のスナップショットの繋がりから、この段になって急にカメラアイがパーッと引いて、彼女の姿は遙かな過去の手の届かないところまで遠ざかり、最後の一文で再び彼女の眼前に視点が戻る、その時間の往復が彼女への思慕の強さを表している気がします。

今日TiM3さんに言われて、あらためてこの詩を見直してみると、深い感興を呼び起こすこの詩が理知的とも言えるしっかりした構成で作られていることに気付きました。
この詩は4つの段で構成されている。
それぞれの段はすべて6つのセンテンスで構成されている。
4つの段は実は一般的な起承転結の形をとっている。
全部で6×4=24のセンテンスのうち、起承転の前3段の18センテンスのうち、13センテンスがイ行で終わっており、彼女のスナップショット同士を繋げる働きをしている。
結の段の6センテンスのうち4センテンスがウ行で終わっており、彼女の思い出の袋に封をする働きをしている。

まあ読む方はそんなことは意識せずに作者にプレゼントされた贈り物をそのまま受け取ればいいんですが、ふと作る側の視点でこの詩を見ると、感動を支える確かなプロの技術を見る気がします。
いや、プロであればこんなことはほとんど意識せずに作っているんでしょうけどね。

2008/07/30

言葉の浮き輪

  

一羽の蝶のように軽々とこの世に生きていて
ただわずかに自分自身であれば
それでよかったのではなかったか


それよ
私は私が感じ得なかったことのために罰されて
死は来たるものと思う故



つらさに耐えかねて茫然と宙を見上げるときにいつも決まって心に浮かぶこの言葉達。
最初のは黒田三郎。後のは中原中也です。

2008/02/28

雪化粧の樹々








よく見れば なずな花咲く 垣根かな

先日新聞に載っていた芭蕉の俳句。
アップした写真とは関係ありませんが気に入ったので。

2007/12/23

冬至




今日は冬至なのに小雨が降って小春日和のような暖かさ。



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