ナガミヒナゲシ。
庭のスミレ。
庭のバラのみずみずしい葉っぱです。
「暗号一つで表わせることばもいくつか考えておかなければならないね」とサイムはまじめにいった。「われわれにとって必要になりそうなことばで、微妙な意味を持っているのを。僕は、同時代ということばをよく使うんだが、君はどうなんだ」
「いいかげんにしてくれないかね」と教授が不平そうにいった。「われわれの仕事がどんなに危険なものか君にはわからないんだ」
「それから、みずみずしいということばがある」とサイムは何もかも飲み込んだ様子で、首を振りながらいった。「みずみずしい、は是非なくてはならない。みずみずしい草というふうに使うんだ」
「われわれがブル博士に草の話などすると君は思うのか」と教授がとうとう腹を立てていった。
「それはいろんなふうにそこまで話を持っていけるね」とサイムは考え込んでいる顔つきをして答えた。「ごく自然なぐあいにね。たとえば、われわれはブル博士に、『博士は革命家である以上さる暴君が人間は草を食べたらいいといったことをご存しのことと思います。事実、われわれがみずみずしい夏草を見る時、――』」
「君はこれから悲劇が演じられようとしていることを知っているのかね」と教授が聞いた。「よく知っているさ」とサイムは答えた。「悲劇では、喜劇的にならなけりゃならないんだ。他にどうしようもないじゃないか。この君の暗号は範囲が少し狭すぎるね。足の指も使えないものだろうか。しかしそれには靴と靴下を脱がなけりゃならなくて、それを目立たずにやるのには、――」
「サイム君、もう寝たまえ」と教授が手短かにいった。
吉田健一訳 創元推理文庫『木曜の男』より。