2015/10/21
Ansel Adams 20の言葉
ネットで拾ったアンセル・アダムスの言葉を訳してみました。。
ちなみに僕が最も好きな言葉は16番です。
1. "The single most important component of a camera is the twelve inches behind it."
カメラの最も重要なパーツはカメラの後方30cmにある(上の写真参照)。
2. "You don’t take a photograph, you make it."
写真は撮るものではなく、創りだすものだ。
3. "There are always two people in every picture: the photographer and the viewer."
(あなたの写真にはいつも人が写っていませんねと文句をつける人に対して)
「ちゃんと二人いるじゃないか。撮った人と見る人が」
4. "To photograph truthfully and effectively is to see beneath the surfaces."
ものごとの本質を印象的にとらえたいなら表面に隠されたものを見抜くことだ。
5. "A great photograph is a full expression of what one feels about what is being photographed in the deepest sense, and is, thereby, a true expression of what one feels about life in its entirety."
偉大な写真には撮影者が見て感じたものが余すことなく、かつその最も深い意味において表現されているものだ。するとそれは撮影者の人生観を丸ごと写しとったものとなる。
6. "A photograph is usually looked at – seldom looked into."
写真の表面だけを見る人は多いが写真の向こう側まで見る人は少ない。
7. "Photography is more than a medium for factual communication of ideas. It is a creative art."
写真は感じた印象を取り交わすための道具以上のものだ。それは創造芸術なのだ。
8. "No man has the right to dictate what other men should perceive, create or produce, but all should be encouraged to reveal themselves, their perceptions and emotions, and to build confidence in the creative spirit."
ひとが何を感じ何を創造し何を生み出すかは自由だが、自分が何者で、どんなものの見方をし、どんな感じ方をするかを明らかにし、自信を持って新しいものを創造することが出来るようにひとびとを励ますことが大切だ。
9. "We must remember that a photograph can hold just as much as we put into it, and no one has ever approached the full possibilities of the medium."
覚えておこう。写真は私達が情熱を注ぎ込めば注ぎ込んだだけしっかりと答えてくれる。しかし未だかつて写真の可能性を完璧に追い詰めたひとはいない。
10. "Photography, as a powerful medium…offers an infinite variety of perception, interpretation and execution."
写真というパワフルな道具。私たちはこの道具によって無限に多様なものごとの理解と、無限に多様な表現と、無限に多様な制作を自分のものにすることが出来る。
11. "There’s nothing worse than a sharp image of a fuzzy concept."
表現したいことが曖昧なのに画像はシャープというのが写真として最悪だ。
12. "The sheer ease with which we can produce a superficial image often leads to creative disaster."
お気楽な気分で片手間仕事をすると往々にして悲惨な結果が待っている。
13. "Twelve significant photographs in any one year is a good crop."
年に1ダースもいい写真が撮れたら御の字だ。
14. "Landscape photography is the supreme test of the photographer, and often the supreme disappointment."
風景写真は写真家にとって最高の腕試しだがしばしば最高のがっかりに終わる。
15. "Sometimes I do get to places just when God’s ready to have somebody click the shutter."
あとは誰かがシャッターを押すだけ!みたいな、まるで神様がお膳立てしてくれたような場所に私はたまに巡りあうことがある。
16. "The negative is the equivalent of the composer’s score, and the print the performance."
撮影されたフイルムが作曲家にとっての楽譜とすれば、現像はその楽譜を元にした演奏に相当する。
17. "Dodging and burning are steps to take care of mistakes God made in establishing tonal relationships.”
覆い焼きと焼き込みは神様のトーン調整ミスを手直ししてあげる工程である。
18. "A true photograph need not be explained, nor can it be contained in words.”
真の写真に説明は不要だし、文章の添え物みたいな扱いはされるべきではない。
19. "When words become unclear, I shall focus with photographs. When images become inadequate, I shall be content with silence."
言葉で説明することが難しいことに出会ったら、私ならそれを写真で明らかにするだろう。写真で明らかにできなければ黙っていたいと思う。
20. "I am sure the next step will be the electronic image, and I hope I shall live to see it. I trust that the creative eye will continue to function, whatever technological innovations may develop.”
私は写真の未来はデジタルだと確信している。叶うなら生きてその未来を見てみたい。受けあってもいいが、テクノロジーがどんな風に進歩しても創造的な目の持ち主は創造の手を休めることはないだろう。
2014/11/30
薔薇を愛するのはたやすいが
2014/11/28
侘び寂び試論
日本固有の美意識としてよく取り上げられるキーワードが「わび・さび」。
何となく感覚として理解しているつもりでも、じゃあワビって何?サビって何?
そしてワビとサビはどう違うのか改めて考えるとよくわからない。
わからないままにしておいてもいいけれど掘り下げると面白そうなテーマなので整理してみました。
侘(わ)び
侘びという言葉を辞書で調べてみると、質素、簡素、粗末、不如意(思い通りにならないこと)、みすぼらしさ、わびしさなどの説明に行き当たります。
この言葉は元来モノが不足していたり不体裁なために気持ちが萎(な)えてしょんぼりする気持ちを表していたらしいのですが、時代を経るにしたがって禅宗や茶道、俳諧などの影響でむしろポジティブな意味に変化していったようです。
ひとは豪華で豊潤なものに接すると心が満たされる感じを覚えますが、むしろみすぼらしいものに接してしょんぼりする自分の心を面白がるスタイルがこの言葉にはあるようです。
寂(さ)び
寂びという言葉を調べてみると、寂しさ、静寂、古いこと、枯れていること、もの静かで落ち着いた奥ゆかしい風情などといった説明に行き当たります。
つまりこの言葉は本来「時間の経過によって劣化した様子」を意味していたらしいのですが、侘びと同じくこの言葉も時代を経るにつれてポジティブな意味を帯びていきます。
ひとは若々しく活発でエネルギッシュなものに接すると元気が出て気持ちが高揚するものですが、その反対に古くて活性の低いもの、停止していて静かなものに触れて心のざわめきが収まることに価値を見出すというのが寂びの立場のようです。
これらをさらに言い換えると
侘びとは物質的欠乏に共感する言葉
寂びとは活性的欠乏に共感する言葉
というふうにまとめることが出来るかもしれません。
さて、これら二つの言葉は共に不足、欠損、障害、老朽、不活性といった、いわば反生命的なものにわざわざ価値を見出すという天邪鬼な性質を持っています。ここで反生命的と書いたのは、私たちが生命と聞いてイメージするところの、伸びる、満ちる、輝く、十全に機能する、若くて活発ということに対し、縮む、枯れる、くすむ、歪んで機能不全に陥る、老いて活性が低下するという方に価値を置いているように思えるからです。
生命に対する反生命。テーゼに対するアンチテーゼ。そしてそこにはそこはかとないユーモアも感じられます。当事者にとっては悲惨でも第三者の、いわば無責任な視点を自らの内に導入することで意味の相対化と逆転をもたらすという、これは赤瀬川原平さんの老人力(エイジングを面白がる気持ち)と似ています。
ワビ・サビというと古臭いイメージですが、実は既存の価値観をひっくり返す生き生きとしたダイナミズムがこれらの言葉の裏にありそうです。
とても革命的でモダンな言葉。
2014/03/07
サットンの法則
Frederick Southwick氏の感染症診療スタンダードマニュアルには熱の原因がはっきりしない患者にやたらと意味のない検査をするよりも詳細な病歴と身体所見で検査を絞り込むことの大切さが述べてあって
そこに「サットンの法則」というのが出てくる。
アメリカの有名な銀行強盗ウィリー・サットン。
逮捕された彼はなぜ銀行強盗をするのかと聞かれ
「そこにカネがあるから」と答えたそうで、要するにどうせ強盗するなら個人の家よりたんまりカネのある銀行がいいと。それでアメリカの医学教育では「一番可能性の高い疾患を想定して検査すべし」
という意味でこの法則が語り継がれているらしい。
この「ウィリー・サットン」氏、英語版のWikipediaをみると掲載された顔写真は盗む方というよりむしろ盗まれる方の銀行の頭取という風体だ。彼は1901年に生まれ1980年に79歳で他界するまでに総計200万ドルを強奪。成人してからの人生の半分を刑務所で暮らし、脱獄に成功すること3回。変装の名人で、銀行に入るときはピストルやサブマシンガンを携帯していたが弾は入っておらず生涯一度も人を殺めなかったという。そのサットン氏が自らの名前を冠した法則について自伝の中でこう言っている。
「銀行強盗の言葉が医学教育の現場で珍重されるなどという皮肉がいったいどんな経緯でそうなったのか知る由もないが私自身としてはそんなことは言っていないということをここではっきりと述べておきたい。風評の元になった記事を書いた件のゴシップ系のリポーターは自分の記事をもっともらしくしようと思って付け足したのだろう。尋ねられたら私もそんな風に答えただろうしそれはだれでも思いつきそうなことだ。だから彼はそう書いたわけでそれ以外に大した理由はないと思う。
なぜ私が銀行強盗を繰り返したかといえば、それは楽しかったからだ。愛していたと言ってもいい。銀行に押し入ってカネを奪う。その時私は人生のほかのどんな時よりも自分が生きていることを実感した。それに関するすべてを私はかけがえなく愛していたし、だからこそ1,2週間もすればもう次の獲物を探しに出かけた。カネはチップのようなものでそれ以上の意味は無い。だから私はカネのあるところへ行ったのだ、何度でも」
2014/02/11
ミョウリ
おぎやはぎの愛車遍歴でゲストの樹木希林さんの話を楽しく聞くうちに耳に残った言葉があった。がんを告知されてから身の回りを整理し始めたが、「ただ捨てるんじゃなくて活かして捨てる。ものにはミョウリがあるんだから」と彼女は言う。
ミョウリ?
知らない言葉だ。それってあの、役者冥利に尽きるとかの冥利だろうか。
それで冥利の意味をJapanKnowledgeで調べてみたら
冥利:
1 仏・菩薩(ぼさつ)が人知れず与える利益(りやく)。
2 知らず知らずの間に神仏から受ける利益や恩恵。また、善行の報いとして受ける幸福。「―がいい」
3 ある立場にいることによって受ける恩恵。「役者―」「男―」
とある。うーん、これかもしれないけどちょっと違うような気もする。
それで「みょうり」という音で他の単語がないかを見てみると「冥理」というのがある。
冥理:
人の目には知られない神仏の考え。また、隠されている道理。
どうもこちらの方ではないか。冥利が冥府から施される利得とすれば冥理は冥府の道理。それが自分のもとにやってきたことには隠された道理があるんだと。それが何かは自分には知り得ないけれども、その道理を尊ぶ気持ちがあれば邪魔モノのようには扱えないでしょと。
うーん、ポンポン物を捨てる私には耳が痛いけど、おかげでよい言葉を知りました。
2013/11/15
えぐい私考
今朝飲んだコーヒーはあまり美味しくなくて、なんて言えばいいんだろう、そう、えぐみがある感じ。
えぐみって不思議な言葉だな。えぐいって言ったりする。
「えぐ」って何だろう。EGU。
EGUで連想するのは「えげつない」という言葉。EGETUNAI。
これ、関西ではよく使うけどいつ頃から使われているんだろう。
それでジャパンナレッジの日本国語大辞典で調べてみた。
えげつ‐な・い
「語源は不明。好ましくない状態を意味するが、
あくが強い味覚を表現する「えぐい、えごい」が、ひどい、残酷という意味で用いられた例が江戸時代にあり、この語に関わるか。
また、「いかつい(厳)」から派生したとする考え方もあるが、いずれにせよ「ない」は「はしたない」「せわしない」と同様に甚しいの意である」と。
そうか。「えげつ」が「ない」じゃなくて、
「えぐ」に強調の「つ」が付いて「えげつ」。それを強調する「えげつな!」に「い」が付いて「えげつない」になったのか。ほー。
じゃあ「えぐい」ってなんだと調べてみると
えぐ・い[ゑぐい]
意味:あくが強くてのどをいらいらと刺激するような味や感じがしている。えごい。えがらっぽい。いがらっぽい。
とあって、和名抄という平安時代の辞書に茄子のエグみを取る方法にこの言葉の古い使用例が載っていた。
つまり「えぐ」というのは当初から味覚とつながりの深い言葉なんだね。
えぐいの語源には諸説あるらしくて例えばえぐるような味とか、えぐられるような苦しみとか書いてあるけど、何となく説得力に欠ける。
えぐるという動詞では味覚とのつながりが切れてしまうような気がする。
「えがらい」という方言は「食物のあくや煙などのためのどが刺激される」という意味で使われている(同書)らしい。
それは煙で燻(いぶ)されたような、焦げたような状態を想像させる。
「いがらい」の「い」は「い(煎・炒・焦)る」ではないか。
つまりいがらいというのは、「(焦げるまで)煎(い)って辛(から)くなった状態」のことじゃないんだろうか。
焦げカスや灰の入ったものを飲むとえぐく感じるような気がする。
だから煎り過ぎたコーヒーを飲んでえぐいと感じるのは正しい!(笑)。
2013/09/05
candid
インドで仕事をされているflickrのコンタクトさんが撮った牛追いする少年の写真にいくつか英語のコメントが付いていて
そのうち2人がcandidという単語を使っていました。
Aさんは"very candid!"
Bさんは"Lovely candid!"
AさんもBさんも写真を称える言葉を添えているということは分かるものの
candidという単語の意味がわからなかったのでリーダーズ英和辞典で調べてみました。
するとこの単語には
率直な, 腹蔵のない; 誠実な, ごまかしのない; 歯に衣きせぬ, 手きびしいという意味と
偏見のない, 公平なという二つの意味があって
さらに「a candid photograph」、あるいは「candid」だけで「スナップ写真」という意味があったんですね。知らなかった!
このお二人はコンタクトさんの写真がとてもスナップ的と感じてこのようなコメントを残したのでしょう。
(僕もfav(お気に入り)させていただきました^^)
さて、candidという単語は
率直である、偏見がない、スナップ写真という3つの意味を併せ持つことになります。
これらの意味は確かに似かよっていますが、では例えば試験の時にこの三つをそろって思い出せるかといえばむつかしい。
特に[率直」と「偏見がない」は少し離れている感じがします。少し距離があるというか。
だって世の中にはズケズケと率直に偏見を述べ立てるひともいるわけだし。誰とは云いませんが(笑)。
でもそれを一つの単語が担っているわけだから
今は3本の枝に分かれていても、枝分かれする前の根源的な幹の部分は共通するはずです。
もしもcandidと聞いてその幹の部分をイメージできれば、そこから自然と3つの意味を連想することが出来るでしょう。
そこで更に調べてみると、candidという単語は古語では「汚れのない」という意味だったらしい。
するとつまりこの単語は、「手が加わっていない」、「汚れていない」というのがもともとの意味で
そこから
1.率直な, 誠実な, ごまかしのない(←小細工していない)
2.偏見のない, 公平な (←操作が加わっていない)
3.スナップ写真 (←無造作な)
という意味が派生してきたということがわかります。
ちなみに18世紀のフランスの啓蒙思想家ヴォルテールの小説に「カンディード」という作品があるそうで
人を疑うことを知らない純真な若者(その名もCandide)が辛酸のかぎりを舐め尽くして
「この世界に起きることは全て善である」という思想に決別するという物語だそうで
面白そうですね。岩波文庫に訳本が出ているようなので読んでみようかと思います。
2011/01/29
赤い夕日と水と言葉と
昨日のテレビ「この日本人がスゴイらしい」に金田一春彦さんの息子さんの金田一秀穂さんが出ていた。
番組の最後に司会の三宅裕司さんから「若い人たちに何か一言」と振られた彼は
「思いついたことを何でもいいから言葉にすること。間違っていても、正確でなくてもいいから
気にせずに思いを言葉にして欲しい」と言うのを聞いて驚いた。
この人は言葉より先に思いがあると思っているのだ。
そのことが少し気になったので書いておく。
アーサー・ペン監督の『奇跡の人』という古い映画がある。
幼いヘレン・ケラーがまだ言葉を知らず獣のような暮らしをしていたとき
サリバン先生の懸命の努力が実ってついに彼女が「水」という言葉を覚え
井戸のポンプからほとばしる水をさわって、「Water!! Water!!」と何度も叫ぶ。
それは実物の水と、脳内の言葉の「水」がつながって、脳内のモデルにスイッチが入って世界と連動して動き始めた瞬間である。
読み書きの出来なかった老婆が幼い頃行けなかった小学校へ再入学し、
「赤い」という字と「夕日」という字を覚えたときのドキュメンタリーを見たことがある。
彼女は字を覚えて最初に夕日を見た時、夕日が赤いことを認識し、「夕日は赤い!」と知って感動の涙を流した。
夕日は、赤かったのだ!
この話も脳内のモデルが、現実とリンクして動き始めた瞬間をとらえたものかもしれない。
未だ言葉を獲得しないままの心の震えは連結器のない機関車のようなもので
他の貨車や列車との繋がりを持たず瞬く間に無意識の海の中に沈んでいく。
その名づけようのない微かな心の動きに名前を与えることによって「思い」が発生する。
言葉より先に思いがあるのではない。
言葉を知らなければ思いはこの世に生を受けない。
ボキャブラリーが多いことを自慢する必要はないが
言葉の数だけひとは様々な思いを感じることが出来る。
言葉を正確に知ることは、他の人と同じ思いを通じ合うためにとても大切なことなのだ。
思いは言葉という網の目の震えである。
網の目が細かければ細かいほどそれだけ小さなものを捕えることが出来る。
粗い網は大きなものしか捕えることが出来ない。
番組の最後に司会の三宅裕司さんから「若い人たちに何か一言」と振られた彼は
「思いついたことを何でもいいから言葉にすること。間違っていても、正確でなくてもいいから
気にせずに思いを言葉にして欲しい」と言うのを聞いて驚いた。
この人は言葉より先に思いがあると思っているのだ。
そのことが少し気になったので書いておく。
アーサー・ペン監督の『奇跡の人』という古い映画がある。
幼いヘレン・ケラーがまだ言葉を知らず獣のような暮らしをしていたとき
サリバン先生の懸命の努力が実ってついに彼女が「水」という言葉を覚え
井戸のポンプからほとばしる水をさわって、「Water!! Water!!」と何度も叫ぶ。
それは実物の水と、脳内の言葉の「水」がつながって、脳内のモデルにスイッチが入って世界と連動して動き始めた瞬間である。
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彼女は字を覚えて最初に夕日を見た時、夕日が赤いことを認識し、「夕日は赤い!」と知って感動の涙を流した。
夕日は、赤かったのだ!
この話も脳内のモデルが、現実とリンクして動き始めた瞬間をとらえたものかもしれない。
未だ言葉を獲得しないままの心の震えは連結器のない機関車のようなもので
他の貨車や列車との繋がりを持たず瞬く間に無意識の海の中に沈んでいく。
その名づけようのない微かな心の動きに名前を与えることによって「思い」が発生する。
言葉より先に思いがあるのではない。
言葉を知らなければ思いはこの世に生を受けない。
ボキャブラリーが多いことを自慢する必要はないが
言葉の数だけひとは様々な思いを感じることが出来る。
言葉を正確に知ることは、他の人と同じ思いを通じ合うためにとても大切なことなのだ。
思いは言葉という網の目の震えである。
網の目が細かければ細かいほどそれだけ小さなものを捕えることが出来る。
粗い網は大きなものしか捕えることが出来ない。
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