2022/12/25
宛先のひと
最近あらためて感じたのが一般的な写真愛好家にとってレタッチに対する生理的な拒否反応がまだまだ強いということだ。
以前紹介したこちらのサイト(リンク)でアメリカのとあるプロの風景写真家の「どうして日本はまだリアリズムにこだわっているんだい?アメリカではもう10年以上も前に終わったことだよ」という言葉は決して誇張ではない。日本の写真雑誌の受賞写真を500pxやFlickrや1xのeditor's choiseの写真を比較すればその違いは明瞭だ。
別に海外が正しくて日本が間違っていると言うつもりはないが海外の写真に対する考え方の自由さに比べれば日本の写真に対するそれはある種とらわれの域を出ていない気がする。
文章を書くときのことを思い返してみよう。
私たちはある思いを文章にするときまず何も考えずそれを書いてみる。で、読み返してみて、うーん違うなぁと書き直す。そしてそれを繰り返す。何度も。
例えばそれをブログなどにアップするならアップした文章を翌日読み返してみてさらに手を加えてアップし直す。そしてやはりそれを繰り返す。
これを推敲と言うが、書き直すという行為が一体どのような観点から我々にもたらされるのかを考えるとやはりそこには「読者」という視点の想定を抜きにすることは出来ない。
ラカンは「エクリ」の序文で「文はその宛先の人なり」と書いたそうだが、要するに我々は自分の外に置いた自分や他者の目で何度も文章を書き直しているわけだ。
それを写真に置き換えてみるとレタッチという行為は写真における推敲であり、それが自分であれ他者であれ、つまり「宛先の人による書き換え行為」と考えることが出来る。
逆に、そう考えれば頑迷な撮って出し派の写真も頑迷な撮って出し派の自分への手紙と考えられないこともない。なるほど。そういう訳か。
だからレタッチするかどうかは善悪の問題ではなく「誰を宛先のひとと考えるか」の違いに過ぎないということだ。
自分だけ深く納得して自分宛の文の筆を置く。
メリークリスマス。
2022/07/01
マイクロコントラスト
海外のサイトを見ているとZeissのレンズはcolor renderingがよいとかmicro contrastに優れているという表現をしばしば目にする。
color renderingは直訳すれば色表現のことなので、じゃあなにか?Zeissは彩度が高めだけどそれ以外のレンズは彩度が低いって事か?と食って掛かるヒトもいるかもしれないが、おそらくcolorをrenderするという言葉には単純に彩度のことだけを言っているのではないだろう。これから述べるmicro contrastについてもそうだが、とかく写真にまつわる感覚表現には曖昧さがつきまとう。話者が何を評価の指標にしているのかがわかりにくく、対話の基礎となる言葉の意味の定義を決めないまま表現だけが一人歩きしがちなのだ。
Googleで"What is micro contrast?"とキーを打つとトップに上がってくるのはDPReviewというサイトの質疑応答フォーラムだ(リンク)。Jack Lamさんの質問に対し61人が回答を寄せている。面白そうな議論なのでとりあえず質問者の箇所だけを訳してみよう。(私はプロの翻訳家ではないのでいろいろ間違っていると思う。それでもかまわないとおっしゃる方だけ読み進めてください)。
《質問者》
私はレンズの特徴や好みについて探求しているが、最近いよいよマイクロコントラストというのがわからなくなってきた。これは実に議論紛糾するテーマだ。
それは究極のレンズ特性で高品質のレンズの持つ聖杯のようなものだという人もあれば、いやいや、マイクロコントラストなどという曖昧な概念はもっと正確な科学的記述に置き換わるべき「まやかし」だと言う人もいる。
面白いのは我々の誰一人としてマイクロコントラストの正確な定義を持っていないらしいということだ。多くの人がそれは測定不可能だという。彼らが言うにはマイクロコントラストというのはただのコントラストやシャープさや解像度ではなくて、明部から暗部への美しく精緻なトーンの移行のことだと。またあるひとはマイクロコントラストを禅のようなものと考えており、それは数値化できるものではなく何か感覚の世界でしか捉えられないものだと主張している。それは特別な魔性の力だ。フォースだ。見分ける力を持ったものにしかわからないと。
そこで質問者はこの言葉の定義のコンセンサスを得るためにブラインドテストをやればいいだろうと考えて10種類のレンズで同一条件で同一被写体を撮影しどの写真が一番マイクロコントラストがあるか回答を求めたのだが、やっぱり議論百出で素直に点数を提示した人は僅かだった。
その中に一人thomasluxというひとがこの言葉の概念をきちんと定義しているサイトを紹介しており(リンク)、そこではある文字列を使ってシャープネスとマイクロコントラストのあるなしについて説明しているのだが、そのサイトの筆者によれば、
"Microcontrast is the ability for one area of the image to maintain strong tonal variation relative to the adjacent areas of the image."
拙訳(マイクロコントラストとは)「ある区画が隣接する区画よりも階調の多様性を強く維持していること」と述べている。その文字列の例では通常のコントラストとマイクロコントラストの違いがわかりにくいが、ページの下の方でSigma DP3 MerrillとSony A7R2で撮った女性の目の写真の比較で彼の言わんとすることがはっきりする。いずれの写真もシャープネスは高いのだがSigmaのほうが隣り合うまつ毛の分離がよい。まつ毛とまつ毛でないところの階調の多様性が維持されていて、結果としてまつ毛が分離しているというわけだ。
つまりマイクロコントラストというのは、局所に於ける階調の分離能のことらしい。
で、これが維持された状態をマクロレベルで見たときにどうなるか。
ミクロレベルで階調の分離が維持されていればマクロレベルで見てもトーンがなだらかに移行していくだろう。階調移行のスムーズさが生まれる。
で、ここで誤解が生まれる。ボケの問題だ。
ボケが大きい写真は階調移行がスムーズな気がする。くっきりしたものにガウスボケをかけるとぼんやりして階調がスムーズに移行しているように見える。だが、ただボケているだけでは隣接する区画よりも階調の多様性が維持されているとは言えない。むしろボケにおいてはミクロレベルでの細かな階調の変化が失われているのだ(※)。
つまり!マイクロコントラストがある写真と、ただボケている写真の両者は、階調移行がスムーズに「見える」という点で一致しているために、分離能の悪いレンズなのにボケが溶けたバターのようにスムーズだという評価が生まれる可能性がある。豊かな階調の移行が見る人に快感をもたらすので「特別な魔性の力だ。フォースだ。見分ける力を持ったものにしかわからない」といったマジックな印象が一人歩きするのだろう。
ではさっきのSigma DP3 MerrillとSony A7R2でマイクロコントラストに差が出たのはなぜなのだろう。画素数が大きければよりマイクロコントラストが得られやすくなるのではないかと思うかもしれないが、いずれの写真もクロップ後で、前者は59メガピクセル、後者は42メガピクセルで画素数にそれほど差はない。また最後に載せたSigmaの写真が15メガピクセルしかないのだが、低画素のためにシャープネスは落ちてもマイクロコントラストが維持されていることから筆者は画素数の関与について否定的な立場を取っている。
(※):これを個人的に実感するのは画像のトーンジャンプを目立たなくしようとして部分的にガウスボケをかけてもトーンジャンプが残ってしまう現象。これはジャンプしてる区画同士の階調のバリエーションはガウスボケでは復活させることが出来ないということを端的に表している。
2019/12/08
反映
うーん、これはね、典型的な一般受けしない写真ですね。
中心となる物的人的テーマがなく心躍る色彩もない。
いやむしろここにはこころをcalm downさせる要素しかない。
撮影者(はい私です)はなぜこの写真を撮ったのか。
そしてなぜ彼は撮れた写真をボツにせずみなさんのお目にかけようというのか。
愚を知った上であえて写真に説明を付与するのは
写真を材料にしてともにこの写真の面白さを共有したいと思ったからです。
まずこの写真は水の反射を撮っています。
景色が反転していることによって被写体の具象性は弱まります。
写真が抽象的すぎると取り付くシマがなくなりますが、ここでは山端の樹々と、水面に僅かに顔を出した水草と、鱗のように敷き詰められた雲が具象性を担保しています。
抽象性によって表現されているのはここではトーンです。
写真をクリックして、さらにFlickrの画面をクリックして拡大表示するとわかりますが下三分の一のアンバーと中央のブルーの移行部で池が深くなっています。
そのおかげでここでトーンが変化しているのですね。
そのトーンの変化を鱗のように敷き詰められた雲の上に観た撮影者は、それを画像にとどめたいと思ったのでしょう。
そのトーンはしずんだトーンです。
去りゆく秋への愛惜はありつつ、しかし山端から覗く太陽が空全体を明るく照らし、それはまるで無情ともいえる時間の推移を光が静かに祝福しているかのようです。
この写真は秋から冬へ、アンバーからブルーへ、池の浅みから深みへ、そして具象から抽象への移行部分をキャッチしています。そしてそれらすべてを、広がりのある景色の中の、しずんだトーンの変化として表現できたらいいなと、作者の中の作者が弁明しています。
2019/08/27
Sigma dp0 Quattro再び

Sigma dp0 Quattro
2011年にNikon D700を買った。
初めてのフルサイズで舞い上がってしまい同じく勢いで買ったCarl Zeiss Distagon 21mm F2.8を付けて撮ったのが昨日の写真。
そのままではとても地味なトーンだったので昨日はかなり手を加えてアップした。
ああいった現実離れした画像に対する異論はあると思う。奇しくも今発売中の『アサヒカメラ』の特集が【風景写真が危ない!「レタッチしすぎの罠」】というのでオレのことか!?と笑ってしまったけれども、もともと日本の写真愛好家はリアリズム重視。
しかし某写真家の言葉にみられるように海外の写真家たちはレタッチについて自由な立場の人が多い。写真に手を加えることに生理的な嫌悪感を抱いている人も、有名なマグナム誌の過去のiconicな作品が信じられないほど細かい焼き込みや覆い焼き作業の末に出来上がっていることを知れば少しはレタッチに対する印象も変わるかもしれない。
もちろんやりすぎは禁物だ。けばけばしければいいというものでもない。
僕のレタッチに対する考え方を述べさせてもらうなら、「あるシーンを見てあっ!撮りたい!と思ったその心のゆらぎが写真に反映されていないなら、その心のゆらぎを再現するように手を加えることは正義」という立場。
えーと、何の話でしたっけ。あ、そうそう、昨日アップした写真。
Distagonの21ミリは相性が悪くほどなく手放してしまったのでした。高いレンズだったのにうまく使いこなせなかったのです。その後もSamyangの14ミリとかLaowaの15ミリとか、買ってはみたもののやはり使いこなせず売却ということを繰り返します。
その広角苦手な僕が唯一親密感を抱いているのがSigmaのdp0 Quattro14mm(換算21mm)。
昨日アップした写真に触発されて、よ~し、ここは一発dp0であの川を撮ってみるか!と鼻息荒くあれこれ準備して昨夜は就寝。
今朝は早めに起きて8年前に前述の写真を撮った場所へ。ライカを使いだしてから、もう使うこともないし売ってしまおうかと思っていたGitzoのエクスプローラーという重い三脚を背中にしょって、野鳥の会のブーツを履いて川の中に入っていき、三脚にセットしたdp0にレリーズをつないで撮ったのが上の写真です。
昨日アップした写真と同じ構図で撮りたかったのですがあの写真のような光が射していなかったので川の反対側を撮影。
2018/09/08
写真を撮る理由
目で見て、あっと思ってシャッターを切る。
そしてこのいくつもの個人的な「あっ」のなかに、ほかのひとの深いところにつながる「あっ」が、ごくたまにまぎれ込んで高い評価を生むことがある。
ところが高評価の「あっ」を探し始めたり、自分はともかく他人が「あっ」と思うようなことがらをテーマにしだすと目や心が濁ってしまって、ヤクザなショットばかりになる。
だから写真を撮るときにはなんにも考えずにボーッとした目に「あっ」が入ってくるのを待つしかなくて、そのほとんどは個人的な「あっ」である。
そういう、個人的には深くてもほかのひとには全然深くない写真を撮り続けているうちに、ほかのひとにも深い「あっ」が撮れることもあるが、それは結果であって目標ではない。
業のないひと、業が癒やされたひとにとっては、自分と他人の両方に深いものが撮れるかどうかは運と結果だけだし、そもそも写真にこだわる必要もない。
だからほとんどのひとは写真を撮ることにこだわらない。僕らがこだわるということは何か解決していない問題があるからだろう。
問題というと語弊があるが、人生には解決しなければならない問題と、それとは別に我々を生き続けさせる糧としての問題がある。
格闘しながら人生は過ぎていく。
2018/08/30
晩夏
ニコンからフルサイズミラーレスのZ7とZ6が発表された。僕としてはGFXみたいなアングルEVFが付いてなかったことが一番のガッカリポイントだけど、やはり新しいカメラはワクワクする。それとともにまたライカ熱が小さく再燃してきてウズウズしている。でも退職して収入が減ったことで妻からは出費を抑えるように厳しく言われていて、新しいカメラを買うことなどとても言い出せる雰囲気ではない。実際X100Fを全然使っていないのに新しいカメラを云々できる筋合いではない。ましてやライカはレンジファインダー。それならX100Fでどんな写真が今の自分に撮れるかやってみなければいけないのだ。
D800Eをメインで使っていた頃はRAWで撮ってビシバシレタッチしていたけど今日のX100Fではjpeg fineで、velviaとかastiaとかclassic chromeで撮った。撮れた写真のイメージはさすがFuji。いじらなくてもきれいだったので撮って出しをFlickrにアップしようかと思ったけど、SilkyPixに放り込んだらやっぱり癖が出て納得できるまでいじってしまった。それでもいつもよりレタッチはかなり少なめ。
どうして触ってしまうかというと僕の場合撮って出しのままではまだ自分の写真になっていない気がする。自分の目で見て、あっと思ってシャッターを切る。この「あっ」には実は目に飛び込んできた映像という刺激が脳の中のどこかの領域を励起させて「あっ」を発生させているわけで、「あっ」は映像という刺激ではなくてそれによって励起された脳の中の電気現象だ。だから撮れた写真を見て「あっ」が出なかったら「あっ」が出るように映像を加工しなくてはならない。「あっ」は自分のためのもの。
2018/07/30
summer
いよいよ来月ニコンからフルサイズのミラーレスが発表されるらしい。ティザー画像のファインダー部をみるとGFXのデタッチャブルファインダーみたいなシルエットなのでアングル機構もついているかもしない。ソニーがα7を発表してからもう5年も経つんだから、単なる後追いじゃなくて写欲を掻き立てるような魅力的なカメラになっているといいな。
先日すごく久しぶりにハッセルブラッド熱が再燃した。
一時は寝ても覚めてもハッセルのことを考えていて、結局買うことはなかったけど今でもたまに片思いが再燃することがある。
それで中古のハッセルブラッドの価格を調べてみたら相変わらず高くてがっかり。でもインスタでハッセルで撮られた写真を見ながら思ったのは、「どんなに憧れてもそれは私の現実ではない。そのための機材を手に入れてもそこに手が届くわけではない。それは私の現実ではない」ということ。
じゃあニコンのフルサイズミラーレスを買ったら「私の現実」が撮れるかというと、それも自信がない。
夜お風呂で赤瀬川原平さんのゼロ通信を読んでいたら次のような文章があった。
「現実とは、整える暇のない現在である」
原平さんにしては珍しく1行独立の、言い切りのセンテンス。そのとき自分のためにとりあえず一つクサビを打ち込んでおかなくてはと思われたんだろう。
じゃあ整える暇のある現在とはなんだろうと考えると、それは自分のお話として正統と認められた現在だろう。僕が撮ってきた写真の多くはどちらかといえば自分のお話として正統と認められた現在のような気がする。ただ写真というのは意図するもの以外のものが撮れるので、そこに整える暇のない現実が入ってくるのが面白くて続けてきたんだけど、撮る能力が向上すると整える暇のない現実の入ってくる比率がだんだん減ってくる。
すると自分しか撮れなくなる。というのはつまり撮れたものに自分しか写っていないことになる。つまらない。それで写欲がなくなって撮らなくなったのだと思う。それで今僕がどちらかというと写真を撮ってアップしたりするアウトプットよりもインプット、ファットバイクに乗って峠へ行ったり、ポルトガル語を勉強したり、ギターを練習したりしているのは、整える暇のない現実を自分の中に取り込みたい、自分の中の未開拓領域を探検したいと思っているからだ。つまり「整える暇のない現在」を自分の中に見つけようとしているからだと思う。
写真を撮るというのは僕にとって「見たものに驚き」「それを外界に発信する」という行為であり、何かに驚くというのは自分の中の未開発領域を刺激されることなのだが、今の自分は自分に飽きているのでもう何を見ても驚かない。だから写欲がないわけだ。それではいかんというので(自分に飽きると生きていく意欲がわかないので)、直接自分の中の未開発領域を開発している。
新しいカメラが欲しいという気持ちや、写真を撮る楽しさは言を俟たないが、何を撮るかとなると途端に途方に暮れてしまうのはそういう訳なんだと、書きながら考える。チコちゃん風に言うと、「写真が撮れなくなったのは」ドドン!「自分に飽きたから~」。
2017/03/27
手垢が見える写真。手垢が見えない写真。
自分の作った作品を見ていいなと思う。
なかなかそうはいかなくて、いやだなと思うことも多い。
作品が自分の手を離れて自立していること。自分の手垢が見えないことがいいなと思える条件かもしれない。
ではそれはどんなときに可能か。
もちろん手垢は付きまくっている。
それは、何を撮るかどう撮るか、撮った写真をどう仕上げるかという工程そのものが手垢の集積のようなものだからだ。
手垢は付きまくっている。しかし見るものの眼にテーマだけが入ってくる作品と手垢が前景化する作品とは何が違うのか。
おそらく手垢が目立つ場合というのは、このように仕上げたい、いや、作品自身がこのように仕上がりたがっているという道が不明瞭で、その道を試行錯誤した手垢の厚みが厚くて、そしてそれはそもそもその道が、つまりテーマが弱かったからそうなってしまったわけだが、その弱かったテーマが厚い手垢でさらに見えにくくなってしまっている場合ではないか。
良い作品はテーマが強い。
テーマが強いとあまり手垢をつける必要がない。手垢が少ないのでさらにテーマが前景化する。
〈後日追記〉
テーマが弱くてもそこには何かがあるという思いが強ければ、その思いが掘り続ける意欲につながり、掘り続けることでようやくテーマがくっきりと姿を現す。何かがあるという思いが弱ければ掘り続けることはできず、テーマが弱いまま、未練だけで作品を提示することになり、手垢が前景化した写真となる。
2017/01/05
写真を撮るということ
写真を撮るというのはとてもおもしろい行為で、それは人によっていろんな楽しみ方があるだろうけれども私にとっては曲がりなりにも作品を作るという、創造する過程をとても楽しんできた。
作品になるような対象を見つけ、それが作品になるためにはどんなカメラ、どんなレンズが適切か、どのアングルからどんな構図で撮るべきか、撮った写真をどんなふうに仕上げるか、出来上がった作品をどのように提示するかといったことを含めいろんなファクターを考えることすべてがとても刺激的で面白かった。
私はありのままの自分にうんざりしている人間だから、外界からの刺激によって変容できるものなら変容したい。それが例えばカメラなら、それを使って作品を創造する自分は、作品とそれを作りそれを見る自分との交歓のなかに自分ならざるものがそこに入ってくることをこそ喜びとしてきた。
それが入ってこなくなって自分しか出てこなくなったらやる意味が無い。
だから畑を耕していて最初はいろんな作物が撮れても、自分という作物しか撮れなくなったら、肥料を変えるとか鍬を変えるとかトラクターを購入するとか、あるいは思い切って種を変えるとか耕し方を変えるとかする。
それでも自分しか取れなかったら違う畑に行くしかないだろう。
そういった脱皮の喜びのようなものを繰り返して、脱皮しても脱皮しても相変わらず自分であることに変わりはなく、ただ脱皮するという行為そのものの快感だけを追い求めているという図式は滑稽としか言いようがないが、趣味というのはそういうものなのかもしれない。
2017/01/02
FlickrのFoveonの作例を見ながら思ったこと
人が一度に受容できるメッセージは一つ、多くて二つだとすれば、リアルすぎる写真は情報が多すぎてメッセージを読み取りにくい。
名刀を手に入れた侍が切れ味を試したくて意味もなく町人を試し切りするような写真を撮るべきではない。
それを見せられた方も困ってしまう。
これは解像力の高いカメラを作った方の罪ではなくてむしろ侍の方に責任があるわけで、それで何を切るか、切った後どう調理するかという視点抜きにこの種の刀は使えない。
よく写らないカメラの方が苦労は少ない。
人一倍解像度コンシャスな自分への自戒として。
2016/10/09
filmoresque
"filmoresque" is a personal coinage.
Digital picture with film touch and have some kind of characteristic emotion which film images have.
I don't know from where this sentiment comes but maybe it has some relation with time and space distance with the subject,
A distance in which you could probably reach to the subject by extending your arms but you cannot.
filmoresque(フィルモレスク):デジタルなのにアナログフィルムカメラで撮ったようなタッチがあり、
かつフィルム特有のセンチメント(情感)が醸し出されている風をいう私的造語。
この感覚はおそらく写っているイメージとの距離と関係がある。
届きそうで届かない時間と距離。
それがどうしてフィルム特有なのかといえばフィルムはデジタルよりも「写らない」から。
ちゃんと写らないことが距離を生むのだろう。
filmoresqueの必要条件の一つとして写真に「隙」や「弛み」があること。
写真に隙がないと見る側は自由に感情移入することができない。
意図でがんじがらめになった写真は上手くてキレイであっても間口が狭過ぎて感情移入することが出来ない。
撮影者が何かに突き動かされて撮ったが自分の意図を把握しきれていない写真。言いかえれば「まだ意図に届いていない」写真。
意図がモチーフに先行している写真はツマラナイが、モチーフが先行していて意図が追いついていない写真は面白い。
つまり「ゆるさ」というのは意図よりもモチーフが先行してしまったことの結果であって、ただゆるい写真を撮ればフイルモレスクになるわけではない。
だから例えばある被写体を何ショット撮ろうが、たとえピンボケで構図がダメダメでも最初に撮った写真が一番だったりするのもその辺りと関係がありそうだ。
いや、追い詰める写真がダメと言うんじゃない。たとえ狭くてもその間口からしか入れない、そんな間口を突き詰めざるを得ないモチーフもあるけれども、それもやはりモチーフの先行ありきなのだ。
そしてこのモチーフの先行というのは、普通に考えれば撮影の、まさにその瞬間の出来事なのだが、面白いことに撮った写真を持ち帰ってから写真を調理する作業行程においても適応される点だ。
つまりモチーフの先行という得難い特権はスナッパーの占有物ではなくレタッチャーもその恩恵に浴することが可能という訳なのだ。
2016/01/17
autotelic
リンク先のpetapixelは"Why You Should Keep on Shooting, Even If No One is Watching"というタイトル、つまり「誰も見てくれないのになぜ写真を撮り続けるべきなのか」というテーマです。
社会的に評価されない作者にとって、あのゴッホさえ生前に1枚も絵が売れなかったじゃないかというのはなかなか便利な言い訳ですが、ではなぜ彼が極度の貧困のなか弟テオ以外誰も見るものもいないのに二千枚もの作品を10年間に渡って作り続けたのか、考えてみると不思議です。
このビデオの作者はその鍵は"autotelic"という言葉にあると言います。
The term "autotelic" derives from two Greek words, auto meaning self, and telos meaning goal. It refers to a self-contained activity, one that is done not with the expectation of some future benefit, but simply because the doing itself is the reward. ・・・when the experience is autotelic, the person is paying attention to the activity for its own sake; when it is not, the attention is focused on its consequences.
拙訳「"autotelic"という言葉は二つのギリシャ語が合体したもので、autoは自己、telosはゴール。autotelicとは「自己充足型の活動」のことで、結果による報酬によらずそれを行うこと自体が報酬であるような行動のことです。(中略)その人が経験したことがもしautotelicなら彼に意識の集中を促しているのはその行為自体であり、結果を意識しているようなら、それはautotelicではありません」
これはハンガリーの心理学者ミハイ・チクセントミハイ氏の著書「フロー体験 喜びの現象学」(原著:Flow: The Psychology of Happiness)のなかに出てくる文章です。"doing itself is the reward"というセンテンスは"Virtue is its own reward."(徳の報酬は徳自身なり)というストア派の哲学者キケロの言葉を彷彿とさせますが、要するにゴッホを駆り立てていたのは行為自体の魅力だったのではないかということです。
"Why You Should Keep on Shooting, Even If No One is Watching"という問いは、shouldという助動詞をべきと訳すよりも「そういう事態に陥っている」というニュアンスで、「どうしてあなたは誰も見てくれないのに写真を続けなくちゃならないの?」という意味でしょう。そしてそれに対する(撮影者側の)返事としては「写真の報酬は写真自身なり」ということになります。
誰に認めてもらえなくてもいい、純粋に撮りたいと思う人だけが撮り続けるのです。
そして撮りたいと思わなくなったら私は写真をやめます。
新しいカメラが欲しくなるまでは(笑)。
2015/10/21
Ansel Adams 20の言葉
ネットで拾ったアンセル・アダムスの言葉を訳してみました。。
ちなみに僕が最も好きな言葉は16番です。
1. "The single most important component of a camera is the twelve inches behind it."
カメラの最も重要なパーツはカメラの後方30cmにある(上の写真参照)。
2. "You don’t take a photograph, you make it."
写真は撮るものではなく、創りだすものだ。
3. "There are always two people in every picture: the photographer and the viewer."
(あなたの写真にはいつも人が写っていませんねと文句をつける人に対して)
「ちゃんと二人いるじゃないか。撮った人と見る人が」
4. "To photograph truthfully and effectively is to see beneath the surfaces."
ものごとの本質を印象的にとらえたいなら表面に隠されたものを見抜くことだ。
5. "A great photograph is a full expression of what one feels about what is being photographed in the deepest sense, and is, thereby, a true expression of what one feels about life in its entirety."
偉大な写真には撮影者が見て感じたものが余すことなく、かつその最も深い意味において表現されているものだ。するとそれは撮影者の人生観を丸ごと写しとったものとなる。
6. "A photograph is usually looked at – seldom looked into."
写真の表面だけを見る人は多いが写真の向こう側まで見る人は少ない。
7. "Photography is more than a medium for factual communication of ideas. It is a creative art."
写真は感じた印象を取り交わすための道具以上のものだ。それは創造芸術なのだ。
8. "No man has the right to dictate what other men should perceive, create or produce, but all should be encouraged to reveal themselves, their perceptions and emotions, and to build confidence in the creative spirit."
ひとが何を感じ何を創造し何を生み出すかは自由だが、自分が何者で、どんなものの見方をし、どんな感じ方をするかを明らかにし、自信を持って新しいものを創造することが出来るようにひとびとを励ますことが大切だ。
9. "We must remember that a photograph can hold just as much as we put into it, and no one has ever approached the full possibilities of the medium."
覚えておこう。写真は私達が情熱を注ぎ込めば注ぎ込んだだけしっかりと答えてくれる。しかし未だかつて写真の可能性を完璧に追い詰めたひとはいない。
10. "Photography, as a powerful medium…offers an infinite variety of perception, interpretation and execution."
写真というパワフルな道具。私たちはこの道具によって無限に多様なものごとの理解と、無限に多様な表現と、無限に多様な制作を自分のものにすることが出来る。
11. "There’s nothing worse than a sharp image of a fuzzy concept."
表現したいことが曖昧なのに画像はシャープというのが写真として最悪だ。
12. "The sheer ease with which we can produce a superficial image often leads to creative disaster."
お気楽な気分で片手間仕事をすると往々にして悲惨な結果が待っている。
13. "Twelve significant photographs in any one year is a good crop."
年に1ダースもいい写真が撮れたら御の字だ。
14. "Landscape photography is the supreme test of the photographer, and often the supreme disappointment."
風景写真は写真家にとって最高の腕試しだがしばしば最高のがっかりに終わる。
15. "Sometimes I do get to places just when God’s ready to have somebody click the shutter."
あとは誰かがシャッターを押すだけ!みたいな、まるで神様がお膳立てしてくれたような場所に私はたまに巡りあうことがある。
16. "The negative is the equivalent of the composer’s score, and the print the performance."
撮影されたフイルムが作曲家にとっての楽譜とすれば、現像はその楽譜を元にした演奏に相当する。
17. "Dodging and burning are steps to take care of mistakes God made in establishing tonal relationships.”
覆い焼きと焼き込みは神様のトーン調整ミスを手直ししてあげる工程である。
18. "A true photograph need not be explained, nor can it be contained in words.”
真の写真に説明は不要だし、文章の添え物みたいな扱いはされるべきではない。
19. "When words become unclear, I shall focus with photographs. When images become inadequate, I shall be content with silence."
言葉で説明することが難しいことに出会ったら、私ならそれを写真で明らかにするだろう。写真で明らかにできなければ黙っていたいと思う。
20. "I am sure the next step will be the electronic image, and I hope I shall live to see it. I trust that the creative eye will continue to function, whatever technological innovations may develop.”
私は写真の未来はデジタルだと確信している。叶うなら生きてその未来を見てみたい。受けあってもいいが、テクノロジーがどんな風に進歩しても創造的な目の持ち主は創造の手を休めることはないだろう。
2014/01/11
scheme
Sigma DP3 Merrill
写真を撮るようになって気が付いたのは欧米人と我々日本人の撮る写真に明らかな嗜好の違いがみられるという点だ。
Flickrや500pxでみる彼らの写真には一定の傾向がある。
基本的に欧米人の写真というのはドラマチックでハッキリしていてHDRを効かせていることが多くてコントラストが高めで、
ひとことで言えば写真そのものが力強い。
それに対して日本人の撮る写真というのは静かでひっそりしていて鄙(ひな)びていてトーンが低め。
明るい写真であっても色使いがおとなしくて可愛いらしい印象だがドラマチックで力強い写真は少ない。
ドラマというのは物語だ。
欧米の文化は起承転結のはっきりした、物語性の強い文化だけど
日本は散文的で枕草子的。求心性が弱く、時間というものは構築していくものではなく流れていくものだ。
それを意識的にも無意識的にも自らが捉えられている陥穽を抜け出したいというあがきが写真に顕れるのか。
取り上げる素材は日本的トリビアで調理は欧米的というのが今の僕の立ち位置か。そうなのか。
2013/12/04
leaves under the current
2013/11/20
物語を断ち切るもの
朝通勤の車からとなりで信号待ちしているゴミ収集車の青い車体を眺めながら考える。
これは一期一会はおろか宇宙の歴史の中でたった一度しか起きないかけがえのない景色だというのに
それをつまらなく見せているのは僕の脳が作り出す過去と未来を繋ぐ物語の、その過去と未来の単なる連結点としての現在だからだ。
だが実際に幻なのは過去と未来の方で、現在だけが真実なのだ。
物語に感動するのは物語だけで、現実を朝露に光る若葉のようにみずみずしく輝かせるのは前後の脈略から自由になった今だけなのだ。
どんな景色もこの宇宙で一回きり。
そして例えばこの青い車体のみえる景色を写真に撮ってもそれがやっぱりつまらない写真にしか見えないなら、それは被写体が悪いのではなくて切り口とプレゼンテーションの仕方の問題なのだ。
あなたの物語が陳腐だから写真が陳腐なのだ。
それなら物語から断ち切られた恐ろしい世界の真実を見せてくれ。
2013/10/29
2013/09/20
自分を感動させる写真が撮りたい。
写真を撮ることを趣味にしている人はみんないい写真を撮りたいと思っているはずです。
でも自分がはたしていい写真を撮っているかどうかをきちんと把握するのは難しい。
ひとの写真は正しく評価できても、自分のこととなるとわからないものです。
そこそこ満足できる写真が撮れたとしましょう。
これっていい写真なんだろうかという疑問がわいた時に
その良し悪しを分ける分岐点となる自問はどんな語法をとるだろう。
「私はそれに満足しているか?」
「私はそれに納得しているか?」
「私はそれをいいと思っているか?」
これらはいい写真のための必要条件ですが十分条件ではありません。
(例)
うさぎならば毛がフサフサしている。
しかし毛がフサフサしていればうさぎかといえばそうとは言えない。
このとき毛がフサフサしていることはうさぎであるための必要条件ですが十分条件ではありません。
ではいい写真のための十分条件とは何か。
それはたぶん「その写真にはそれを見るひとをmoveする力があるか?」という問いではないでしょうか。
具体的には一番身近なひとである私を感動させる力があるかどうか。
自分が撮った写真なのに自ら何度も見たくなる欲望に駆られるかどうか。
そういう判断基準を持っていればひとになんと言われようとも
ひとりよがりと言われようとも、それがいい写真なんだと僕は思います。
2013/09/19
こころざし
カメラの機種を指定してflickrで検索するとそのカメラで撮ったいろんな写真を見ることが出来る。
CanonやNikonやその他各社のカメラで撮った写真はそれぞれにカメラごとの特色があって面白い。
粒ぞろいの写真が目白押しだとそのカメラが欲しくなるし
緊張感のない写真ばかりだとがっかりする。
おそらくそれぞれのカメラが惹きつける集団には、カメラに対する要求に一定の指向があるのだろう。
そのなかにはとりわけ機材に特殊な思い入れをするひとに人気の機種がある。
カメラに惚れてしまうと、こんな写真が撮れました的な写真が多くなる。
こんな言い方が許されるなら写真のこころざしが低い。
すべての写真がこころざし高くあるべきだというのではないんですよ。
一枚仕上げるのに何日も、場合によっては何年もかかる絵画と比べて
カメラは人差し指を数ミリ押下するだけです。
それだけ安易になればいくらでも安易になれる。
カメラに撮ってもらっただけの、こころざしの低い写真ばかりだと寂しいじゃないですか。
そんなこと言われたら写真が一枚も撮れなくなるじゃないか!
ごもっともです。
どんどん撮ればいいと思います。
でも絵画と違って写真はどんどん捨てることが出来る。
どんどん撮って、ダルな写真はどんどん捨てればいいと思います。
ちなみに今日のアップはこころざしの低い写真です(笑)。
2013/09/04
絵作り擁護論(それが相手に届くかどうかという視点から)
Sigma DP3 Merrill
真っ白なキャンバスに筆記具を使って描く絵画の場合、手を加えることが問題になることはありません。
写真に手を加えることの是非がしばしば問題になるのはその出自が写実にあるからでしょう。
写真の本質がそのドキュメント性にあるなら写真に手を加えるなど、もってのほかということになります。
写真に手を加えることのやましさは偽物の真実を創りだすということにありそうです。
しかし例えば料理を提供するときに適切な量を適切な味付けでサーブするように、写真が自分や他人の心に届くかどうかという視点に立って手を加えるのは恥ずかしいことではありません。
逆に、未加工でありさえすればいいというのでは、それが相手に届くかどうかを全く考慮に入れていないという点からみてむしろひとりよがりということにならないでしょうか。
以上をわかりやすく図式化すると
ひとりよがりの未加工<<<・・・・・・・適切に手が加えられた作品・・・・・・・>>>ひとりよがりの過剰な加工
ということになるかと思います。
ここにはもう一つ問題があって、それは自分と他人とでは感性が異なるという点です。
自分の感性と他人の感性の距離が小さければ問題はないんですが感性の距離が大きいと、自分にとっては適切でも他人から見ると過剰だったり不足だったりする。
でもそこには個人の裁量権があります。
距離が大きくても自分用のサーブを優先するか
見る人のpopularityを優先するか。
それはあなた次第なのです。
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