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2013/10/07
10月7日
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
カメラを持って散歩に行くのは1ヶ月ぶり。
モチベーションが極度に低下していたというよりも
撮らなくても平気だったこと。
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
休みの日はずっとPhotoshop CS6の参考書を読んでいたこと。
それで昨日は大体読み終えて一区切りついたわけだけど。
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
撮らなくても平気というのはなかなか気分のいいものだ。
撮らないと落ち着かないというaddictの状態から自然に抜けだすことが出来た。
そういう年月だったのだろう。
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
久しぶりに撮った写真の何枚かはPhotoshopで現像とレタッチをしたけど
僕の現像工程は行きつ戻りつ。
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
明確な出来上がりのイメージに向かって最短距離で仕上げていくのにPhotoshopは向いている気がする。
僕の場合は微妙なトーンや色調や明暗の調整を延々と繰り返しながら考えるので、シルキーピクスのほうが自分に合っている。
単に慣れの問題かもしれないけど。
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
キンモクセイの香りにうっとりします。
しみじみ秋ですね。
2013/10/06
僕が知りたいことは
Nikon D800E with Carl Zeiss Makro-Planar T* 2/50 ZF
最近新聞を日経に変えたのであれこれ記事が目新しい。
けさの朝刊(平成25年10月6日)の文化欄に毎週日曜連載の哲学対話「哲おじさんと学くん」が載っていて面白く読んだ。書いておられるのは哲学者の永井均氏で今日が第22回らしい。タイトルは「君の存在には因果連関がある」。
学 (前略)僕が知りたいことは、みんな同じように脳があって、脳が意識を作り出す仕組みは同じなのに、なぜこの一つしか実際には感じられないのか、この違いは何に由来しているのかなんだよ。
哲 両親から髪が茶色く目の大きい男の子が生まれ、「学」と名づけられた。
彼は自己意識を持つようになり、「なぜ僕は存在するのか?」と問うにいたった。
このプロセスはすべてしかるべき因果連関に支配されていると言える。
学 その子が僕であることは?その子がそういう子で、そういう問題を考えていても、つまり僕と全くそっくりでも、それでも僕ではないこともありうるよね?逆に、この僕とは似ても似つかない16世紀に生まれたドイツ人が僕というあり方をしていてもよかったよね?
つまり、こいつが僕であることにはしかるべき因果連関がないよね?だって、科学的な因果連関から言えば、そもそもこの僕なんて生じる必要はないんだから。
脳がどんな意識を作り出してもそれが僕の意識である理由なんかないのと同じで。
哲 さっきも言ったが、君でなかった場合のその学くんも、同じ経過をたどって、その同じ問いを問うが・・・。
学 同じ問いかな?確かに、僕自身以外の誰にも、その学くんと僕とを識別することはできない、というかその区別が意味を持たない。それでも、僕の問いは彼の問いとは違うよ。だって、その違いこそがこの問いの主題なんだから。
哲 …と学くんという人が言っていると、君自身以外の人はみな理解するだろう。
そして、その発言にいたる全プロセスは、全体論的にであれ唯物論的にであれ、因果的に説明できるから、その意味では君の存在にはしかるべき因果連関がある、ともいえるわけだ。
学 そうすると、世界の中に学という人は存在しているけど僕は存在していないことになる?
その僕がいなければ何もないのと同じなのに!
(以上引用終わり)
むつかしいですね。
扱っているテーマも難しいけど、そもそも他人の発言の趣旨を理解することは難しい。
それで二人の対話を僕なりに編集してみました。括弧内()が僕の付記です。
では始めます。
学 僕が知りたいことは、みんな同じように脳があって、脳が意識を作り出す仕組みは同じなのに、なぜこの一つしか実際には感じられないのか、この違いは何に由来しているのかなんだよ。
(なぜ僕は自分の意識にしかアクセス出来ないんだろう。他人も自分と同じメカニズムで意識が生じているなら他人の意識にアクセスできてもいいはずなのに)
哲 両親から髪が茶色く目の大きい男の子が生まれ、「学」と名づけられた。彼は自己意識を持つようになり、「なぜ僕は存在するのか?」と問うにいたった。このプロセスはすべてしかるべき因果連関に支配されていると言える。(それぞれの意識は個別の因果関係で生じているものであり、意識を自由に他人と交換できるわけではない)
学 その子が僕であることは?その子がそういう子で、そういう問題を考えていても、つまり僕と全くそっくりでも、それでも僕ではないこともありうるよね?逆に、この僕とは似ても似つかない16世紀に生まれたドイツ人が僕というあり方をしていてもよかったよね?つまり、こいつが僕であることにはしかるべき因果連関がないよね?だって、科学的な因果連関から言えば、そもそもこの僕なんて生じる必要はないんだから。脳がどんな意識を作り出してもそれが僕の意識である理由なんかないのと同じで。(僕がこの世界に登場する必然性が因果律では説明できないなら、この入れ物に僕の意識が入る必然性はない。16世紀のドイツ人が僕であってもよかったんじゃないか)
哲 さっきも言ったが、君でなかった場合のその学くんも、同じ経過をたどって、その同じ問いを問うが・・・。(因果律という根っこの生えた意識はそれぞれが別々になぜ僕が僕なのか?って問うよね。)
学 同じ問いかな?確かに、僕自身以外の誰にも、その学くんと僕とを識別することはできない、というかその区別が意味を持たない。それでも、僕の問いは彼の問いとは違うよ。だって、その違いこそがこの問いの主題なんだから。(いや、僕が知りたいのは同じ問いを発しているのにそれぞれが互換不能な個体にとどまっているのはなぜかということ)
哲 …と学くんという人が言っていると、君自身以外の人はみな理解するだろう。そして、その発言にいたる全プロセスは、全体論的にであれ唯物論的にであれ、因果的に説明できるから、その意味では君の存在にはしかるべき因果連関がある、ともいえるわけだ。(個体はそれぞれ自らの因果律によってその問いを発するのであって、君の問いだけが特別なものではないということを君以外の人はみんな理解しているよ)
学 そうすると、世界の中に学という人は存在しているけど僕は存在していないことになる?その僕がいなければ何もないのと同じなのに!(それぞれの脳がそれぞれの因果律に従って意識を持っているのはいいとしても、僕が自分の目を通して世界を認識していることは、僕が僕であることの特殊性が担保しているおかげだと思うわけで、僕が特殊でないなら僕から観た世界も存在しないことになってしまう)
(以上引用と付記の終わり)
問題は、他の人でありえたかもしれない自分が、なぜ私をやっているのか、なぜ私はあなたではないのかということです。そしてさらに、なぜ私はこういう問いを発せずにはいられないのか?
学くんの疑問を整理してみよう。
「私」という意識がある。まずある。
その「私」は「学くん」の中に住んでいる。
なぜ「私」は16世紀のドイツ人の中ではなく学くんの中に住んでいるんですか?
それに対する哲おじさんの答え。
順序が逆なのです。
「私」は学くんの中に「あとから」発生してきたものである。
それに対する学くんの疑問(彼のこの疑問で今週のコラムは終了している)
えっ?学くんが先で私があとなんですか?私があるから世界があるわけで、私がなければ世界はないはずですよね!
さて、だいぶ整理できた気がするので喩えを変えてみよう。
学くんは、自分が運転手ならクルマを乗り換えてもいいはずなのになぜ乗り換えることが出来ないのかと考えた。
それに対し哲おじさんは、君はクルマの運転手じゃなくてクルマのこれまでの車検歴みたいなものだと答えてるんですね。
哲おじさんが学くんをどのように導くのか、来週の日曜日をお楽しみに。
ちなみに哲おじさんと学くんで「哲学」というわけですね。
上記について考えながら書いたメモ
2013/10/02
左脳遮断体験
TEDにある脳科学者が脳出血で左脳の機能を一時的に失った時の体験が載っていました。
まだお読みになっていない方はぜひご一読下さい。非常に興味深い記事です。
普通なら激しい混乱とともにパニックに陥ってとてもこんなふうに冷静でいられないと思いますが、
自らが体験した稀有な感覚を、リアルかつ客観的に記述する作法はまさに一流の脳科学者に相応しいものです。そしてその記事の読後にそれが以前自分が書いた記事と関係がありそうだと感じたので再掲してみます(手前味噌(笑))。
〈以下は2008/4/6のブログ記事「仮想世界に「私」が登場する瞬間」の再掲です〉
中枢神経を有する生物は脳の中にモデルとしての世界を持つことが出来る。
中枢神経とは仮想世界の入れ物のようなものだ。
仮想世界はそのままでは脳の中の単なる景色(view)だけれども、「言語」が誕生すると仮想世界は自動能を獲得して、まるでゼペットじいさんの作ったピノキオのように勝手に動き始める。
やがて仮想世界は現実世界に対して優位に立つようになる。
現実世界には過去も未来もないけれども、仮想世界には「言語」による未来と過去があり、ここではないどこかが存在する。時間的空間的自由を獲得した仮想世界は現実世界よりも優位な立場に立つとともに現実世界を変革するようになる。
仮想世界の言語の主催者ははじめは「神」だが、仮想世界に「私」が誕生することによって主人公は徐々に「私」にシフトし、やがて「神」は消滅する。ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」は、我々に「意識」が出現し「神」が消滅したのはつい最近(今から3000年前)であると述べている。(だが名実ともに「神」が消えたことを我々が知るのはもっとずっとあとのことだ)
では「私」はいつ誕生するのか。
viewとしての世界に私が登場するためには「viewとしての私」が必要である。
それは何によって獲得されるのだろう。
私は自分の顔を直接見ることが出来ないので、古い時代には似顔絵や水瓶の水をのぞき込むことでしか自己のイメージは得られなかった。やがて人々の生活に余裕が出来てみんなが自分の鏡(今風に言えばマイ鏡)を持つようになると「私」は急速に普及する。「鏡」という道具と「私」というシステムが疫病のように社会に広まった時代があったのだろう。
つまり仮想世界には三つのレベルがあり
A.中枢神経が生まれてviewとしての仮想世界が誕生するレベル。
B.「言語」が発明されて仮想世界が現実世界の優位に立つレベル。
C.広く鏡が普及して「私」が流行し「神」が消退するレベル。
そしてこれら三つのレベルを担うのは
A.は中枢神経のある生物たち。
B.は古代の人間たち。
C.は現代の人間たち。
以上で再掲終わりです。
TEDに掲載された脳科学者の体験を読んだひとは一種の臨死体験として死後私達はすばらしい幸福感に満ちた世界につつまれるのではないかと誤解するかもしれません。
しかし彼女が体験したのは死後の世界ではなく、左脳のフィルターを外した純粋な右脳の世界です。言語脳を持たない人間以外の動物もおそらくこのような世界を見ているのではないかと僕は思っています。
左脳というのは簡単に言うと自分を主人公にした物語を生み出している一種の「物語脳」と考えられます。
物語には過去と未来があり、筋書きがあり、役割がある。
我々は常にこの自らが編み出した物語の中を生きており、物語にどっぷり浸かったまま人生を終える。
「幸福」という物語を追い求め、「不幸」という物語に縛られる。
仏教は迷妄が単なる左脳の作用にすぎないと教えており禅は左脳のスイッチの切り方を教えているのではないかと僕は考えています。
(→脳が脳から自由になるための二つの方法)。
そういう意味ではこの脳科学者は禅の悟りのようなものを体験したのかもしれません。
彼女の体験談が東洋の神秘に触れた西洋人を連想させるのはその辺と関係があるのでしょう(オイゲン・ヘリゲル著の「弓と禅」)。
まだお読みになっていない方はぜひご一読下さい。非常に興味深い記事です。
普通なら激しい混乱とともにパニックに陥ってとてもこんなふうに冷静でいられないと思いますが、
自らが体験した稀有な感覚を、リアルかつ客観的に記述する作法はまさに一流の脳科学者に相応しいものです。そしてその記事の読後にそれが以前自分が書いた記事と関係がありそうだと感じたので再掲してみます(手前味噌(笑))。
〈以下は2008/4/6のブログ記事「仮想世界に「私」が登場する瞬間」の再掲です〉
中枢神経を有する生物は脳の中にモデルとしての世界を持つことが出来る。
中枢神経とは仮想世界の入れ物のようなものだ。
仮想世界はそのままでは脳の中の単なる景色(view)だけれども、「言語」が誕生すると仮想世界は自動能を獲得して、まるでゼペットじいさんの作ったピノキオのように勝手に動き始める。
やがて仮想世界は現実世界に対して優位に立つようになる。
現実世界には過去も未来もないけれども、仮想世界には「言語」による未来と過去があり、ここではないどこかが存在する。時間的空間的自由を獲得した仮想世界は現実世界よりも優位な立場に立つとともに現実世界を変革するようになる。
仮想世界の言語の主催者ははじめは「神」だが、仮想世界に「私」が誕生することによって主人公は徐々に「私」にシフトし、やがて「神」は消滅する。ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」は、我々に「意識」が出現し「神」が消滅したのはつい最近(今から3000年前)であると述べている。(だが名実ともに「神」が消えたことを我々が知るのはもっとずっとあとのことだ)
では「私」はいつ誕生するのか。
viewとしての世界に私が登場するためには「viewとしての私」が必要である。
それは何によって獲得されるのだろう。
私は自分の顔を直接見ることが出来ないので、古い時代には似顔絵や水瓶の水をのぞき込むことでしか自己のイメージは得られなかった。やがて人々の生活に余裕が出来てみんなが自分の鏡(今風に言えばマイ鏡)を持つようになると「私」は急速に普及する。「鏡」という道具と「私」というシステムが疫病のように社会に広まった時代があったのだろう。
つまり仮想世界には三つのレベルがあり
A.中枢神経が生まれてviewとしての仮想世界が誕生するレベル。
B.「言語」が発明されて仮想世界が現実世界の優位に立つレベル。
C.広く鏡が普及して「私」が流行し「神」が消退するレベル。
そしてこれら三つのレベルを担うのは
A.は中枢神経のある生物たち。
B.は古代の人間たち。
C.は現代の人間たち。
以上で再掲終わりです。
TEDに掲載された脳科学者の体験を読んだひとは一種の臨死体験として死後私達はすばらしい幸福感に満ちた世界につつまれるのではないかと誤解するかもしれません。
しかし彼女が体験したのは死後の世界ではなく、左脳のフィルターを外した純粋な右脳の世界です。言語脳を持たない人間以外の動物もおそらくこのような世界を見ているのではないかと僕は思っています。
左脳というのは簡単に言うと自分を主人公にした物語を生み出している一種の「物語脳」と考えられます。
物語には過去と未来があり、筋書きがあり、役割がある。
我々は常にこの自らが編み出した物語の中を生きており、物語にどっぷり浸かったまま人生を終える。
「幸福」という物語を追い求め、「不幸」という物語に縛られる。
仏教は迷妄が単なる左脳の作用にすぎないと教えており禅は左脳のスイッチの切り方を教えているのではないかと僕は考えています。
(→脳が脳から自由になるための二つの方法)。
そういう意味ではこの脳科学者は禅の悟りのようなものを体験したのかもしれません。
彼女の体験談が東洋の神秘に触れた西洋人を連想させるのはその辺と関係があるのでしょう(オイゲン・ヘリゲル著の「弓と禅」)。
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