2011/01/30
森の奥で木が倒れる
伊丹さんのエッセイには詩情がある。
その例を、ここで引用することはしない。
ご存じでない方は例えば彼の「女たちよ!」の中の「思索的自転車」あるいは
「ヨーロッパ退屈日記」の中の「最終楽章」をお読みいただきたい。
彼の使う言葉のリズムや音の正確さ。
その言葉に乗って運ばれる詩情の愛くるしさ。
私は彼と彼の文章をこよなく愛している。
時折、ふいに私の記憶によみがえってくる一文がある。
それは「問いつめられたパパとママの本」の中の、最後から4つめの問いに対する返答の一文である。
「だれもいない森の奥で巨きな木が倒れるとき、音はするのだろうか」
あたりを聾するほどの大音響と共に、巨木が倒れる。そこに人がいれば。
だが誰もいなければその木が倒れるところを目にするひとはなく、倒れる音も聞かれまい。
巨木が倒れる。音もなく。
彼が倒れた時、誰がその音を聞いただろう。
2011/01/29
赤い夕日と水と言葉と
昨日のテレビ「この日本人がスゴイらしい」に金田一春彦さんの息子さんの金田一秀穂さんが出ていた。
番組の最後に司会の三宅裕司さんから「若い人たちに何か一言」と振られた彼は
「思いついたことを何でもいいから言葉にすること。間違っていても、正確でなくてもいいから
気にせずに思いを言葉にして欲しい」と言うのを聞いて驚いた。
この人は言葉より先に思いがあると思っているのだ。
そのことが少し気になったので書いておく。
アーサー・ペン監督の『奇跡の人』という古い映画がある。
幼いヘレン・ケラーがまだ言葉を知らず獣のような暮らしをしていたとき
サリバン先生の懸命の努力が実ってついに彼女が「水」という言葉を覚え
井戸のポンプからほとばしる水をさわって、「Water!! Water!!」と何度も叫ぶ。
それは実物の水と、脳内の言葉の「水」がつながって、脳内のモデルにスイッチが入って世界と連動して動き始めた瞬間である。
読み書きの出来なかった老婆が幼い頃行けなかった小学校へ再入学し、
「赤い」という字と「夕日」という字を覚えたときのドキュメンタリーを見たことがある。
彼女は字を覚えて最初に夕日を見た時、夕日が赤いことを認識し、「夕日は赤い!」と知って感動の涙を流した。
夕日は、赤かったのだ!
この話も脳内のモデルが、現実とリンクして動き始めた瞬間をとらえたものかもしれない。
未だ言葉を獲得しないままの心の震えは連結器のない機関車のようなもので
他の貨車や列車との繋がりを持たず瞬く間に無意識の海の中に沈んでいく。
その名づけようのない微かな心の動きに名前を与えることによって「思い」が発生する。
言葉より先に思いがあるのではない。
言葉を知らなければ思いはこの世に生を受けない。
ボキャブラリーが多いことを自慢する必要はないが
言葉の数だけひとは様々な思いを感じることが出来る。
言葉を正確に知ることは、他の人と同じ思いを通じ合うためにとても大切なことなのだ。
思いは言葉という網の目の震えである。
網の目が細かければ細かいほどそれだけ小さなものを捕えることが出来る。
粗い網は大きなものしか捕えることが出来ない。
番組の最後に司会の三宅裕司さんから「若い人たちに何か一言」と振られた彼は
「思いついたことを何でもいいから言葉にすること。間違っていても、正確でなくてもいいから
気にせずに思いを言葉にして欲しい」と言うのを聞いて驚いた。
この人は言葉より先に思いがあると思っているのだ。
そのことが少し気になったので書いておく。
アーサー・ペン監督の『奇跡の人』という古い映画がある。
幼いヘレン・ケラーがまだ言葉を知らず獣のような暮らしをしていたとき
サリバン先生の懸命の努力が実ってついに彼女が「水」という言葉を覚え
井戸のポンプからほとばしる水をさわって、「Water!! Water!!」と何度も叫ぶ。
それは実物の水と、脳内の言葉の「水」がつながって、脳内のモデルにスイッチが入って世界と連動して動き始めた瞬間である。
読み書きの出来なかった老婆が幼い頃行けなかった小学校へ再入学し、
「赤い」という字と「夕日」という字を覚えたときのドキュメンタリーを見たことがある。
彼女は字を覚えて最初に夕日を見た時、夕日が赤いことを認識し、「夕日は赤い!」と知って感動の涙を流した。
夕日は、赤かったのだ!
この話も脳内のモデルが、現実とリンクして動き始めた瞬間をとらえたものかもしれない。
未だ言葉を獲得しないままの心の震えは連結器のない機関車のようなもので
他の貨車や列車との繋がりを持たず瞬く間に無意識の海の中に沈んでいく。
その名づけようのない微かな心の動きに名前を与えることによって「思い」が発生する。
言葉より先に思いがあるのではない。
言葉を知らなければ思いはこの世に生を受けない。
ボキャブラリーが多いことを自慢する必要はないが
言葉の数だけひとは様々な思いを感じることが出来る。
言葉を正確に知ることは、他の人と同じ思いを通じ合うためにとても大切なことなのだ。
思いは言葉という網の目の震えである。
網の目が細かければ細かいほどそれだけ小さなものを捕えることが出来る。
粗い網は大きなものしか捕えることが出来ない。
2011/01/28
2011/01/23
m4/3にSTFを装着した姿は如何に
2011/01/21
E-P2にSTFを付けて温室へ行くの巻
あいかわらずカメラに興味のないひとには意味不明のタイトルですね。
縷々説明しますのでお待ちを。
3ヶ月ほど前から買うべきかどうか延々と悩んでいた旧ミノルタ(現SONY)のレンズSTF 4.5/135を
ついにヤフオクで購入したのである。
本当はα900というフルサイズのカメラに付けて使いたいレンズなのであるが
フルサイズ一眼は高い。
やむなくE-P2にα用のマウントアダプターを付けて使用する決心がついて
購入に至ったわけである。(何を威張ってるんだ)。
今日はその試し撮りのために車で京都府立植物園へ行く。
いつも京都へは名神で行くのであるが、今日はゆったり気分を味わいたいので亀岡を通って地道で。
2時間かかった。ふ~。
お目当ては植物園の中の温室。
中に入ったらものすごい熱気と湿度で眼鏡もカメラのレンズもファインダーも液晶も全て曇って何も見えないじゃないか!
仕方がないのでおっさんは自然に曇りが消えるまで15分くらい所在なげにぶらぶらする。
暑いのでオーバーとトレーナーをロッカーに預かってもらいワークシャツの袖をまくって撮影開始。
STFは135ミリだけどE-P2に付けると270ミリ。最短撮影距離は87cm。
これを無謀と言わずして何を無謀というのか。
いやまったく無謀である。
すごい望遠マクロで開放F値は4.5でかつ僕はいつも手撮りなのでブレは必至。
しかし長年DP1で手振れと闘ってきたわしは平気じゃ。
さらにE-P2はカメラ本体内に手振れ補正機構が組み込まれているのでおっさんに金棒である。
3時間ほどで170枚ほど撮ってようやく温室から出る。
おっさんが外をぶらぶら歩いていると池にアオサギがいた。実270ミリが重宝する。きれいなアオサギ。
そのあと植物園の中のレストランでいかにもおっさんが好みそうなとろろそばを食べて帰る。
帰りもやっぱり2時間かけて帰る。
家に帰ってからシルキーピクスでRAW現像して170枚のうち30枚をFlickrにアップするおっさん。
おっさんの結論
STFは使える!これにマクロエクステンションチューブを付ければ最短撮影距離も短くなってマクロも撮れるので
さらに楽しみが増えるというもんじゃ。
神よ、罪深き哀れなアマチュア写真愛好家を許し給え。アーメン。
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