2019/12/26
2019/12/23
2019/12/19
Velvet85
LensbabyのVelvet85を買った。
Lensbabyというのはぐるぐるボケとかトイレンズみたいな、まぁ面白系のレンズばかり作っている会社で、そのなかでもVelvetはゆるふわ系のレンズ。
Velvet85は85mm F1.8。
3群4枚のレンズで羽根絞りは12枚。最大撮影倍率は1:2のハーフマクロで最短撮影距離はレンズ先端から23cm。
絞り開放では全体に霧(フレア?)がかかったような、ソフトフィルターみたいな効果が出る。
クリック感のない無段階絞りなので僕の場合近接では絞り2と2.8のあいだの2.5あたり、遠景では開放で撮ると好みの効果が得られることがわかった。
もともと僕はシャープで高精細な写真が好きだったが、最近こういった写りすぎないレンズとか、何が撮れるかわからないレンズに心ひかれている。
ただ、ボケボケであればいいというわけではなくて、意図で追い詰めて破綻するとか、破綻しかかっているものを意図で追い詰めるとか、そういうことに興味が移っているのかもしれない。
2019/12/11
自由は恐ろしい
ひと(特に男性)と仕事との関係は凧と糸の関係に似ている。
糸が切れたらどんなに自由だろうと想像するが、自由を感じるのは仕事から開放されたつかの間だけで、しばらくすると仕事一筋だったひとは文字通りどうしていいかわからなくなってしまう。糸の切れた凧は風に巻かれてくるくる回って、自分が上昇しているのか下降しているのかさえわからない。
糸という不自由がなくなると、ひとは自由になるだろうか。
残念ながらそうはならない。自由というのは、自分で自分の姿勢を制御してはじめて可能なのだ。糸は私の自由を束縛するとともに私の姿勢制御を行っていたのだ。
仕事という糸が切れてしまったら、自由どころか自らの姿勢制御ができなくなってしまう。それで男性は急に慌てて蕎麦打ちを始めたり陶芸に凝りだしたりカメラを持ってうろついたり大型バイクの免許をとって旅に出たりするのだが、果たしてそれが心底楽しいかといえば実は身の置き所のない気持ちを宥めているだけだったりする。
だが問題は男が心底楽しいと思えるものと出会えたかどうかではない。
男に必要なのは凧の姿勢制御のための重りなのだ。糸の切れた凧は自分に重りをぶら下げなければならない。重りだから楽しいかどうかは二の次である。
考えてみると現役の男性は社会やシステムという他者から与えられた重りによって姿勢を制御してもらっていたのだ。だから仕事をやめたら自分で自分におもりを付けて自分で姿勢を制御しなければならない。
気の合わない配偶者というのも実は凧の糸だったりする。糸が切れたら自由だろうと想像するが、他者とつながることの得意な女性達ならいざしらず男性というのは糸が切れたらそれっきり。ありあまる自由に耐えきれず死を選ぶようなことにもなる。
自由というのは恐ろしいものだ。
気ままな生活を送っていた桑野さんが今後大きな束縛を抱え込むことが火を見るより明らかなのに、なぜまどかさんと暮らすことを選んだのか。
昨日の「まだ結婚できない男」の最終回を見ながらあれこれ考える初冬の夜でした。
2019/12/09
autumn flow
今日、てつまり昨日ですが僕は妻とるり渓に出掛けた。
るり渓というのは京都の園部川という渓流に沿う4キロの自然歩道です。
以前何枚かアップした秋の風景は僕が一人で撮りに来たときのものですが、今日は妻を連れているので身軽ななりで出かけようとカメラはフジのX100Fを選択。
上流から三分の一くらいまで下ったときに雨が振り始めたので、そろそろ引き返そうかと思ったら目に入ったのがこの景色です。
川面の泡が渓流のうろでゆるやかに旋回しています。
カメラの露光時間を長くするとご覧のような渦巻きが撮れるので多少写真をかじったことのあるひとなら「ああ、あれね」という、ま、よくある写真ですね。
でも僕はまだ上手く撮れたことがないので妻を散歩に連れ出すなんていう似つかわしくない事のご利益だと思ってホクホク顔で撮り始めたわけです。
でもカメラはX100Fだし(いやべつにX100Fがダメというんじゃないんです。ただ僕の中ではX100Fというのは気楽な相棒という位置づけなのです)、外付けNDフィルターもないし三脚も持ってきていない。
ちゃんと撮れるかどうかわからないけどま、やってみようということでまずはカメラ設定。ISO200, 絞り16, 内蔵NDフィルターをON, シャッター速度をB(バルブ)で3~4秒。カメラを遊歩道に倒れかかっている枯木の幹の上に押し当てて、構図を考えながら3枚撮った。
1枚めと2枚めはわずかにブレていたけど3枚めは奇跡的にブレがなかったのでPhotoshopやSilkypixでいろいろ調整してアップしたのが上の写真です。
うーん、やっぱりね、準備万端機材満載、矢でも鉄砲でももってこい、鬼でも龍でもかかって来い!なんて気迫で鼻息も荒々しく出掛けるとあえなく空振りでションボリ帰ることが多いけど、鼻歌でも歌いながらコンデジなんか持って出掛けるとこんなシーンに出くわしたりする。
因果なもんです。
2019/12/08
反映
うーん、これはね、典型的な一般受けしない写真ですね。
中心となる物的人的テーマがなく心躍る色彩もない。
いやむしろここにはこころをcalm downさせる要素しかない。
撮影者(はい私です)はなぜこの写真を撮ったのか。
そしてなぜ彼は撮れた写真をボツにせずみなさんのお目にかけようというのか。
愚を知った上であえて写真に説明を付与するのは
写真を材料にしてともにこの写真の面白さを共有したいと思ったからです。
まずこの写真は水の反射を撮っています。
景色が反転していることによって被写体の具象性は弱まります。
写真が抽象的すぎると取り付くシマがなくなりますが、ここでは山端の樹々と、水面に僅かに顔を出した水草と、鱗のように敷き詰められた雲が具象性を担保しています。
抽象性によって表現されているのはここではトーンです。
写真をクリックして、さらにFlickrの画面をクリックして拡大表示するとわかりますが下三分の一のアンバーと中央のブルーの移行部で池が深くなっています。
そのおかげでここでトーンが変化しているのですね。
そのトーンの変化を鱗のように敷き詰められた雲の上に観た撮影者は、それを画像にとどめたいと思ったのでしょう。
そのトーンはしずんだトーンです。
去りゆく秋への愛惜はありつつ、しかし山端から覗く太陽が空全体を明るく照らし、それはまるで無情ともいえる時間の推移を光が静かに祝福しているかのようです。
この写真は秋から冬へ、アンバーからブルーへ、池の浅みから深みへ、そして具象から抽象への移行部分をキャッチしています。そしてそれらすべてを、広がりのある景色の中の、しずんだトーンの変化として表現できたらいいなと、作者の中の作者が弁明しています。
2019/12/07
2019/12/06
2019/12/05
2019/11/30
2019/11/28
2019/11/27
2019/11/26
2019/11/23
2019/11/22
2019/11/20
2019/11/02
アバルトのハッチの閉まる音をどうにかする
2019/10/31
2019/10/30
2019/10/26
2019/10/25
2019/10/24
2019/10/22
アサギマダラ
今日きのこを撮りに行った帰りに僕の行く手を一羽の蝶がフワフワと飛んでいった。
僕は昆虫類はあまり好きではない。花は撮るけど、基本的に昆虫は撮らない。
「撮らないよ」と思いながら見ると蝶は左手の崖のセイタカアワダチソウに留まって蜜を吸い始めた。
撮れるかも、と思ったらついカメラを構えてしまうのがアマチュア写真家のサガ。
不思議に逃げないので接写してホクホクしながら帰宅し昆虫図鑑で調べてみたら名前はすぐに分かった。
アサギマダラ。
ネットで調べてみるとこれがとんでもない蝶だった。
季節によって南北に長距離移動するのは渡り鳥だけかと思ったら、この蝶も渡りチョウの一種で東北地方から台湾や香港まで2,500キロ以上の飛翔が確認されているらしい(詳しくはこちらのサイトで)。
彼もおそらく日本列島の北の方から飛んできてここ兵庫県で一旦羽を休めたあと南へ飛んでいくのだろう。
どうりで羽根が傷んでるわけだ。
"ふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った"という詩があるけれども、本当に海峡を渡ることのできる蝶に出会うとは思わなかった。
2019/10/21
2019/10/19
2019/10/07
橋本治さん
モノゴトというのはこの世に生まれたときには素直なわかりやすい姿をしているが、時代が経ると当時の空気が消えたり後の世の人がひねくりまわしたりして最初の姿が見えにくくなる。
あるいは最初からわかりにくいものというのもあってそれは当事者が事態を消化しきれずにあるいは消化するとマズイために未消化なまま世間にプレゼンしてしまってその結果わかりにくいモノゴトという事態が出来する。
そういうわかりにくいモノゴトというのはいわばこんがらがってほどけなくなったヒモのようなものなのだが、こんがらがっている状態をありがたがったり、こんがらがっているなら難しいからわからないものとして食わず嫌いしている世間の人が多くてそこに登場するのが橋本治というひとだ。
橋本治とはなにものだったかを一言でいうなら「ひもをほどくひと」。
ひもをほどいて、もとのすがたをみんなにみてもらいたがっているひと。
彼にしてみれば世間の人たちが「もつれているもの」をなぜありがたがるのかがわからない。もつれはもつれにしかすぎない。そんなものをありがたがったり敬遠したりするのはおかしいしもったいないことだと彼は考えたのだろう。
もつれをほどいてみたらなにもないただのひものこともある。それを、神妙な顔でもっともつれさせて威張っているひとに騙されて無駄な時間を送っているひとの目をサマさせたりすることが、彼は好きだったんだろう。
あるいはこんがらがっているひもをほどいていったら原初の結ぼれ(ノット)、それは最初にそのノットを驚き楽しんだ人が世間にプレゼンした原初のノットがみえてくることもある。原初のノットはこんなに可愛らしい、あるいは美しい形をしていたんですよというふうに、ほどいてみせることが好きなひとだったんじゃないかという気がする。