2018/12/31
Farewell to 2018
去年暮れに仕事をやめてから張り切って新しいマウンテンバイクを買って野山を駆け回ったり、ボサノバの弾き語りを目標にポルトガル語を独習したりギターを習いに行ったりしたけれど、種々のワークアウトについては転倒して肋骨を骨折したり、心臓の問題でハードな運動は無理とわかったり、腱鞘炎からばね指になってギター教室を休むことになったりした。それはせっかちな僕にとってゆっくり歩んでいくことを覚えさせられた一年だった。
期限を設けず、ゴールを設けず、しかし止めない。
「完全には止めてしまわない」ということだけに意義と喜びを見出す。それはなんと地味で困難な目標だろう。期限という切迫感からくるネガティブなエネルギーや、ゴールというご褒美的ポジティブエネルギーなしにひとは自分にタスクを課すことが可能だろうか。
もちろんそれは可能だ。むしろ達成できないからプロセスに生きるのだと自分に言い聞かせる年の暮れ。
皆さん良いお年をお迎え下さい。
2018/12/29
this way
Flickrには気に入った写真にfav(インスタのいいねみたいなもの)を付けられる機能がある。どんな写真にfavを付けるかはひとそれぞれだけど、僕の場合意図的にコンタクトを制限しているので「お返しfav」や「お愛想fav」はほとんどない(※)。
僕がfavを付ける基準は大体次の3つ。
1.自分の路線ではないけれど惹かれる写真
2.自分の路線だけど洗練されているもの
3.参考になる機材や手技など
1は将来その路線に行くかどうかわからないけど、すくなくとも今の自分には欠落していて、しかもあこがれている領域。それはいわば架空の未来だ。
2は自分の路線だけど僕より先を行っていて、うーん、参りました、降参です、というもの。うまいなぁと思うけど、これは僕の進むべき未来ではなくどちらかといえば現在に属する領域だ。
3はまぁ参考にfavしておくかというもの。
このなかでやはり見返して面白いのは1で、これは自分が今どういう路線にあこがれているのか、そしてなぜそういった写真に惹かれているのか、はたまたそれは僕が進むべき方向なのか、それとも単なるあこがれとして楽しむにとどめたほうがいいのか、などなど考えるヒントにあふれている。
初期の頃の自分のfavを見ると、今となってはどうということもない写真でも、あのころあこがれて自分には到底こんな写真は撮れないけれどいつかは撮れるようになりたいと感じた写真が目白押しなので見ていてホッコリする。その頃の写真は今の自分は(生意気なようだけど)追い越してしまっているのでほとんど参考にはならないが、中~後期のfavには今の自分の写真に似たものが多い。favを見返すと自分のあこがれの時間軸を辿っているようで面白い。だから最近favを付けた写真は進むべき道の萌芽とも言えるだろう。「favは未来を指し示す」というわけだ。
(※)→これは非難しているのではありません。Flickrをコミュニケーションの場として使っている人にとっては「挨拶fav」は大事だと思う。でも僕みたいなfavの使い方があってもいいでしょう?
2018/12/23
古い栗の木
先日妻の車でウサギを動物病院に連れて行く途中、刈り取りの終わった田んぼの向こうに栗の木が一本立っているのが見えた。ちょうど霧が発っていて幽玄な雰囲気だったので、アッと思ったがすぐに通り過ぎてしまった。カメラがあれば妻にウサギを任せて歩いて引き返せたのに。
それで昨日自転車に乗ってその田んぼへ行ってみた。背中にはユリシーズのチクリッシモのカメラバッグ、中にはM10-PとSummaron 5.6/28とアポゾナー。
このチクリッシモのカメラバッグは自転車で写真を撮りに行くのに便利な種々の工夫が施されていて、クラウドファンディング当初から気になっていたけど価格が3万8千円と高かったので二の足を踏んでいるうちに販売終了になってしまった。今回ライカで写欲が再燃したのをきっかけにヤフオクで検索したらきれいな出物があったので安価に手に入れることができた。
これは本来ショルダーバッグとして使う製品だが、僕はウエストバッグとしても使いたい。ストラップを目一杯縮めてもウエストの締りが緩いので蓋のフック引っ掛け用のループを取り去ったらしっかり腰で締めることができるようになり、ますますこの製品が気に入った。予備にもう一つ購入したいほどだ。
さて田んぼに到着してみたら霧が晴れていた。おまけに太陽の光が弱いせいで樹の彩度が低い。栗の木に近づいてズマロンで撮ってみたが当たりの感触が得られない。そこで樹から離れてアポゾナーで撮ってみたら、30メートルほど離れているのに浮き上がってくるような樹の立体感と枝の細密感をモニターで確認することができた。
それでホクホクして帰宅しPCで画像を確認してみた。枝の細密感と樹の立体感に加えて、モニターではわからなかったが樹の後ろに微かに靄がかかっているところがあって、これが写真に少し幻想的な味付けをしてくれている。それはいい、それはいいんだが、前述したように彩度が低いせいで全体に地味なのだ。やりすぎない程度にコントラスト、彩度、ホワイトバランスの調整に周辺減光を加えたりしたが落とし所が見つからない。
うーん困ったなと思い、いじる前のRAWファイルをNik CollectionのSilver Efex Proでモノクロームにしてオレンジフィルターを掛けたら枝の粉雪が風に舞っているような効果が出たので終了とした。
2018/12/18
2018/12/16
winter comes
去年の12月で仕事を退職してちょうど1年になる。辞めた当初はいろいろ夢が広がってわくわくしていたが、最近は「将来に対する漠然とした不安」(芥川)を感じている。誰しも老年期ともなれば死を考えない日はない。考えないまでもそれは通奏低音として常に静かに響いている。若い頃には若い頃なりの通奏低音として底なしの孤独と絶望が響いていたことを思えば、いつまで経っても人生というものは晴天快晴とはいかないものなのだろう。
それにしても先程書いた将来に対する漠然とした不安の原因として死以外に思い当たるものがあるとすれば、それは今朝ふと気がついたのだが「期限のなさ」に由来しているのではないかということだ。
働いていた頃は常に期限というものがあって、月や週、さらには日々の例えば夕刻までに仕上げなければならない仕事があって、期限がタスクの輪郭を作っていたように思う。翻って今の僕の生活を思えば期限がない。唯一の期限は死だが、期限がないことでタスクの輪郭がぼやけてしまっているように思う。だからどうすればいいというわけでもないのだが。
2018/12/15
2018/12/14
2018/12/12
path #6
先日何でも鑑定団を見ていたら画家の故松田正平氏が自室に「犬馬難鬼魅易 ~犬馬(けんば)は難(かた)く鬼魅(きみ)は易(やす)し」という短冊を掲げていた。これは中国の春秋戦国時代に諸葛亮孔明が劉備玄徳の息子に教科書として与えた韓非子という書物に載っている言葉らしい。
中国の古代の王様があるとき絵の名人に尋ねた。
「何を描くのが難しいかね?」
すると画家はこのように答えた。「(そこらにいる)犬や馬が一番難しゅうございます」
不思議に思った王様が「じゃあ聞くがお前が簡単に描けるものは何だね?」というと画家はこのように答えた。
「(見たこともない)鬼や化け物でございます」
要するに、珍しいものや見たことがないものは想像の羽根を広げて自由に描くことができるけれども、日常見慣れたものを目の垢を取り払って、新鮮な子供のような気持ちで見るというのは大変難しいことだと。実際松田正平氏の絵画は一見すると子供の落書きのようだが、生まれて初めて目が見えるようになったひとには世界はこんなふうに見えるのかもしれないと思わせるような驚きがある。
見慣れた景色を、驚きをもって見ることができるだろうか。
2018/12/11
35mm
今回ライカを買うにあたって選んだレンズはNoctilux 0.95/50とSummaron 5.6/28。
この2つは被写界深度の観点からは両極端のレンズで、かたや極薄、かたや極深。ノクチはボケと立体感、ズマロンはドラマチックなコントラストと周辺減光というふうに、ともに性格がはっきりしている。普通によく写るレンズならわざわざライカを買う意味がない、いや少なくとも最初に買うなら鈍感な僕でもライカを買った意味をしみじみ感じることのできるレンズを選びたいという発想で選んだレンズだ。
もちろんこの2つのレンズには深く満足しているが、でも僕にはもう一つ憧れのレンズがある。それはCarl Zeiss Distagon 1.4/35 ZM。
ヨドバシのKさんの作例は僕の中で長い間くすぶり続けたライカ熱の一番大きな燃料源だったと言っても過言ではない。もともとスナップを撮らない僕が35ミリという、いわばスナップ用の画角のレンズに惹かれたのはこのレンズで撮られた写真の醸し出すスタティックな印象によるところが大きい。
35ミリならこの作例に心を射抜かれたSummiluxはライカにピッタリのサイズだ。しかしなにしろ高すぎるし、さっきもDistagonのことをスタティックと表現したがSummiluxで撮られた写真は何となく動的な感じがして僕には似合わない気がする(すっぱい葡萄か)。
じゃあDistagonを買うかとなると次はお金の問題だ。Distagonの価格はSummiluxの1/3だがそれでも残念ながら今の僕には手が出ない。
35ミリならAi Nikkor 35mm F1.4Sがあるじゃないか。あまり使ってなかったろ?ともう一人の自分が言う。
K&FのNikon-L/Mマウントアダプターを介して装着。
マウントアダプターとフードを装着した分前に長い。Summiluxの倍ぐらいか。
レンジファインダーが連動しないのでピント合わせは背面液晶かビゾフレックス。
このレンズ(Flickrの作例はこちら)は開放での蠱惑的なボケと絞れば現代のレンズに負けない切れ味という二面性を持つことで有名だ。しかしマウントアダプターを介しての鏡筒の長さや重さを引き算すれば、新たに、しかも財布に優しいレンズを購入するならNokton Classicだろう(Flickrの作例はこちら)(ヨドバシの作例はこちら)。でも僕の場合に限って言えば、そして贅沢な立場であるということを充分わかった上での話だが、新たにレンズをどうこうするよりも僕にはFuji X100Fがある。ライカと2台持ちすればレンズ交換はいらないし、X100FはAFであるという利点以外にもカラーレンダリングの観点からきわめて優秀だ。
この2つは被写界深度の観点からは両極端のレンズで、かたや極薄、かたや極深。ノクチはボケと立体感、ズマロンはドラマチックなコントラストと周辺減光というふうに、ともに性格がはっきりしている。普通によく写るレンズならわざわざライカを買う意味がない、いや少なくとも最初に買うなら鈍感な僕でもライカを買った意味をしみじみ感じることのできるレンズを選びたいという発想で選んだレンズだ。
もちろんこの2つのレンズには深く満足しているが、でも僕にはもう一つ憧れのレンズがある。それはCarl Zeiss Distagon 1.4/35 ZM。
ヨドバシのKさんの作例は僕の中で長い間くすぶり続けたライカ熱の一番大きな燃料源だったと言っても過言ではない。もともとスナップを撮らない僕が35ミリという、いわばスナップ用の画角のレンズに惹かれたのはこのレンズで撮られた写真の醸し出すスタティックな印象によるところが大きい。
35ミリならこの作例に心を射抜かれたSummiluxはライカにピッタリのサイズだ。しかしなにしろ高すぎるし、さっきもDistagonのことをスタティックと表現したがSummiluxで撮られた写真は何となく動的な感じがして僕には似合わない気がする(すっぱい葡萄か)。
じゃあDistagonを買うかとなると次はお金の問題だ。Distagonの価格はSummiluxの1/3だがそれでも残念ながら今の僕には手が出ない。
35ミリならAi Nikkor 35mm F1.4Sがあるじゃないか。あまり使ってなかったろ?ともう一人の自分が言う。
K&FのNikon-L/Mマウントアダプターを介して装着。
マウントアダプターとフードを装着した分前に長い。Summiluxの倍ぐらいか。
レンジファインダーが連動しないのでピント合わせは背面液晶かビゾフレックス。
このレンズ(Flickrの作例はこちら)は開放での蠱惑的なボケと絞れば現代のレンズに負けない切れ味という二面性を持つことで有名だ。しかしマウントアダプターを介しての鏡筒の長さや重さを引き算すれば、新たに、しかも財布に優しいレンズを購入するならNokton Classicだろう(Flickrの作例はこちら)(ヨドバシの作例はこちら)。でも僕の場合に限って言えば、そして贅沢な立場であるということを充分わかった上での話だが、新たにレンズをどうこうするよりも僕にはFuji X100Fがある。ライカと2台持ちすればレンズ交換はいらないし、X100FはAFであるという利点以外にもカラーレンダリングの観点からきわめて優秀だ。
2018/12/08
path #3
ひとの気配がまったく感じられない景色が魅力的であるためには「珍しい」「スペクタクルな」「芳醇な色彩の」「何らかの驚きを伴う」「暗示的な」といった、悪く言えばビックリ箱的な要素が必要で、もしその景色の色彩が地味で何ら驚くような要素のない見慣れた景色でしかも暗示的でさえなければ、それを観る鑑賞者は退屈に感じ、いやむしろなぜこの景色を撮ったのかと訝しく思うだろう。
Flickrや500pxで高い評価を得る写真には前述のようなビックリ箱写真が多くて、魅力的ではあるが長く観ているとやはり退屈なものだ。それは撮影者自身がその景色に深い部分でムーブされていないからではないかと思う。
しかし撮る立場から言えば深い部分でムーブされる光景にそうそう出会えるはずもなく、「すごい」と言われたいがためにスペクタクルな名所や美人を撮りに行くというのもあさましくていやだ。
じゃあそんな天邪鬼だけどせめて自分が魅力に感じる写真を撮りたいと思っているひとはどうすればいいのだろう。
そこにひとがいなくてもなにかしらひとの気配のようなものが感じられる風景というのが今の僕のテーマかもしれない。
2018/12/07
2018/12/06
2018/12/05
2018/12/04
2018/12/03
2018/12/02
a forgotten memory
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