2013/07/31
2013/07/30
なぜ顔を隠すのかという ぼんやりとしていても自明のことがらについて
なぜウェストンの写真では顔が隠れているのかといえば
それは肉体の肉体性がテーマだからだろう。
じゃあ肉体をアピールするときになぜ顔を隠す必要があるのだろう。
それはたぶん人間の身体のうち、視覚や聴覚や嗅覚や味覚といった感覚の入力器官が顔だけに集まっていて
またさらに表情筋や発声器官といった、感情や思考を出力するための器官もそこに集まっていることと関係がある。
つまり我々はここで他者と繋がっている。
眼を貫くヒモで一列に連なっているメザシのように
我々は一般的に顔で人間社会というネットワークに繋がっている。
写真に写った顔からヒモが出ていて
肉体よりも先にそのヒモの行く先を追ってしまうから
あらかじめヒモを切っておく必要があるのだろう。
2013/07/29
rose in the dark
これは以前にも書いたことがあると思うけど
薔薇は他の花よりも構成が立体的なので光の当たり方が画一的でない。
薔薇の面白さは、小さな個体の中に陰陽があることだ。
僕はヌードを撮ったことはないけれど
小さくまとまった身体の陰陽でヌードを撮ったら面白いだろうなと思う。
それで思い出すのがエドワード・ウェストンで
彼の撮った写真の例えばピーマンや肉体にしても、そのエロティシズムはある個体に凝縮された陰陽の変化にあるように思う。
それで陰陽がテーマだと色彩情報はないほうがいいので写真は必然的にモノクロームになる。
2013/07/28
傾向と対策
5月の末に母親が他界してからめっきり写真を撮りに行かなくなった。
もう月末なのに今月はまだ1回しか行っていない。
以前は週に1~2回は山へ写真を撮りに行ってたんだから随分モチベーションが落ちたものだ。
平気な顔をしていてもやはり母親の死が影響しているのかもしれない。
でも母親の死とは別に6年前に写真を始めてから徐々に撮影枚数が減っているのは薄々感じていたので
試しにFlickrにアップした月ごとの写真枚数をエクセルでグラフ化してみた。
グラフをぼんやり見ていると何となくガンマ分布やn=6あたりのカイ二乗分布に似ているような気がする。
僕は統計は門外漢だけどおそらくこれは「撮影満足閾値に達するまでのショット数を意味していて
このグラフを見ても年々閾値が低下しているのは明らかだ。
もし本当にガンマ分布に従っているなら何年後に何枚撮影しているかもある程度予測できるだろう。
このグラフで面白いのは新しいカメラを買うたびに撮影枚数の減衰が一旦持ち直すんだけど
年を追うごとにこの持ち直し効果が小さくなっていることだ。
そういうのを巷間では「焼け石に水」と言う。
つまり今後は欲しい欲しくないは別として
新しい機器の導入による持ち直し効果はあまり期待出来ないということだ。
じゃあどうするか。
いやどうするったって、これは自然現象であって
逆らっても仕方がない。
妙にしょんぼりせずに撮りたくなったら撮ればいいのだろう。
もう月末なのに今月はまだ1回しか行っていない。
以前は週に1~2回は山へ写真を撮りに行ってたんだから随分モチベーションが落ちたものだ。
平気な顔をしていてもやはり母親の死が影響しているのかもしれない。
でも母親の死とは別に6年前に写真を始めてから徐々に撮影枚数が減っているのは薄々感じていたので
試しにFlickrにアップした月ごとの写真枚数をエクセルでグラフ化してみた。
グラフをぼんやり見ていると何となくガンマ分布やn=6あたりのカイ二乗分布に似ているような気がする。
僕は統計は門外漢だけどおそらくこれは「撮影満足閾値に達するまでのショット数を意味していて
このグラフを見ても年々閾値が低下しているのは明らかだ。
もし本当にガンマ分布に従っているなら何年後に何枚撮影しているかもある程度予測できるだろう。
このグラフで面白いのは新しいカメラを買うたびに撮影枚数の減衰が一旦持ち直すんだけど
年を追うごとにこの持ち直し効果が小さくなっていることだ。
そういうのを巷間では「焼け石に水」と言う。
つまり今後は欲しい欲しくないは別として
新しい機器の導入による持ち直し効果はあまり期待出来ないということだ。
じゃあどうするか。
いやどうするったって、これは自然現象であって
逆らっても仕方がない。
妙にしょんぼりせずに撮りたくなったら撮ればいいのだろう。
2013/07/27
7月27日
五月末に母親が他界して二ヶ月が過ぎたが、当日も通夜でも葬式でも私は泣かなかった。
特別複雑な事情のある家庭ではないが、自分の生い立ちにはそれなりに屈折したものがあり
いずれ私が心の鎧を脱ぐ時に泣くのかもしれないが少なくとも今はまだその時ではないらしい。
今朝も寝床でぼんやり考えていて、モーツァルトが母親の死に際して作曲したK.331(トルコ行進曲)が
どこにも涙の跡が見えないのが不思議で、むしろそれが彼の悲しみの深さを暗示しているのかもしれないが
なんとなく気になってネットで調べてみたら、聖徳大学の原佳之氏の論文のなかで
モーツァルトが母の死に際して著したのはK.331(イ長調)ではなくてK.310(イ短調)の可能性が高いということだった。
確かにYouTubeでK.310を聴くとここにはト短調弦楽五重奏曲に通じる暗い運命のモチーフがある。
僕はブレンデルとグルダのCDを持っているがそのいずれにもK.310が入っていないから
いろいろ考えた末にピリス(今はピレシュというらしい)とグールドのピアノソナタを注文することにした。
まだ手元に来ていないのにこういうのも何だが
これはおそらく優しくハンカチを渡されて泣くか、後ろから頭をポカポカ殴られながら泣くかという
表現としては両極端の選択になるだろう。
じゃあお前は泣きたいのかというとそうではなくて
おそらく僕は強すぎる母親のアニマの王国から逃亡した息子で
今はかつての王国の中心をめぐる音楽が聞きたいのだろう。
それにしてもむしろK.331の方が母の死の音楽ならよけいに切実な気がするのだが。
2013/07/20
後ろ髪
ずっと以前から気になっていたタイムドメインのスピーカーが今日届くので
古いスピーカーはとっとと売っぱらってしまおうと、プリンターの台になっていたスピーカーを二階から一階に降ろして(重さが1本25キロもある!)
掃除機で積もっていた埃を吸って雑巾で拭いてきれいにして買取業者を待っていた。
ついでだからとこれもずっと埃をかぶっていたテープデッキを出してきて
アンプにつないで阿川泰子を掛けてみたらあんまりいい音が出たのでびっくりした。
JBL-A620は外観がまだきれいなので少し未練があったのに
未練もへったくれもなかった30年前のYAMAHA NS-700Xがとてもいい具合に鳴ったので
どうしたもんかと悩んでいるうちに引き取り業者がやって来たので
結局テープデッキもYAMAHAも残してJBLだけ持って行ってもらった。
それからまた25キロのスピーカーを二本エッサエッサと二階に持って上がってシステムを組み直したら夜になっていました。
これが今回うちにやってきたECLIPSEのTD508MK3です。
夜一人で静かに聴くにはもってこいのスピーカーですね。音の粒立ちがくっきりしていてヴォーカルの唇の動きが見えるような感じ。
YAMAHAと並べて一緒に鳴らしたり片方だけ鳴らしたりして楽しんでいます。
2013/07/18
今月のTwitterから。
7月7日:久しぶりにレコードが聴きたくなってプレーヤーを引っ張りだして聞くモーツァルトのK516。続いてフォーレのレクイエム。
7月13日:レコードを引っ張りだして30年ぶりにムラヴィンスキーのチャイコフスキーの5番を聴く。
この曲を教えてくれた秋山毅君とは連絡が取れなくなってしまったけれど。強く胸に迫る。
7月13日:ムラヴィンスキーに続いてシャルル・ミュンシュとパリ管弦楽団のブラームスの1番。底なしのおぞましさが素晴らしい!
うーん、誇りをかぶっていたレコードプレーヤーを引っ張りだしてきたのは大正解だった。
7月13日:昔聴いていたヘンリック・シェリングのレコードを聴き直してみたらちょっと甘ったるくてインテンポ。
もっと切羽詰った、切れば血の出るようなバッハが聴きたくなってギドン・クレーメルのCDを注文してみた。楽しみ。
7月15日:ギドン・クレーメルのDVD「Back to Bach」を観ていたら彼がソフィア・グバイドゥーリナさんという女性作曲家が作曲したオッフェルトリウムという曲の演奏に参加している場面があって、音の深さが印象的だったのでこのCDもアメリカのアマゾンに注文してみた。音楽三昧の日々なり。
7月15日:このギドン・クレーメルというヴァイオリニストもソフィア・グバイドゥーリナというタタール出身の女性作曲家も、自分の穴をコツコツ掘り続けている人たち。
7月15日:20GBのU2 Special Editionではもう入りきらないので160GBのiPod Classicを購入。生産末期の噂もあるのに。
http://goo.gl/BQ60N
7月に入ってからずっとこんな感じです。
20年前に日本橋で買ったOnkyo A-922Mというアンプとその時に一緒に買ったJBL A620というスピーカーと
30年前に買ったYAMAHA NS-700X Monitorというスピーカーで聴いています。
で、今週末に20年ぶりにスピーカーを買い換えようかと画策しています。
写真は4年前の1月にDP1で撮ったボケの花をモノクロームで。
2013/07/13
Lamy
カートリッジがなくなったのでコンバーターと一緒にボトルインクを購入。
Lamyのブルーは爽やかな青色が気に入っています。
ボトルで買うのは初めてですが、おや?ボトルの下にあるのは何かな?
箱のフタに説明がありますね。
ピンセットでひっぱりだしてみましょう。
おお、ミシン目付きのロールペーパーが。
裏側は吸湿加工されています。
つまりこのようにドボンとペンをボトルに突っ込んでインクを吸引して
インクで濡れたペン先を
この紙で拭きなされと。
ロールペーパー部分をはずすとこんな感じ。
ボトルの底の出っ張った部分に溜まったインクを最後まで吸引できるというわけで、なるほどよく考えられています。
ちなみにこのボトルはコマにして遊べます。(いやどこにもそんなことは書いてないから)
以上絵に描いたような文具小ネタでした。
2013/07/08
実存カメラ
今はもう誰も実存主義のことなんか口にする人はいないけど
僕が高校生の頃はクリーム色の表紙にウロボロスが描かれた
人文書院のサルトル全集なんかを小難しい顔で読んでいる友人が確かにいたし
僕自身も「実存は本質に先行する」という言葉にドキドキしたり
好きだったアルベール・カミュがサルトルとの論争に負けたと知って悔しい思いをした。
まあ、そういう時代だった。
そのサルトルもやがてレヴィ・ストロースによって一時代の民族的信憑として葬られ
人里離れた洞穴をたった一人でコツコツ掘り進むような思考の探検家も今ではあまり見かけなくなった。
「実存」という言葉を久しぶりに思い出したのはDP3を使ったからだ。
被写体を剥き出しにする身も蓋もない描写。
対象のマチエールや重量感を浮かび上がらせるこのカメラは
モノそのもの、「物自体」を表現する「実存カメラ」というあだ名がふさわしい気がする。
Shinzoさんご苦労様でした。そしてありがとう。
2013/07/06
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