2009/10/16

土手に寝ころがって空を見上げれば

R0013171


土手に寝ころがって空を見上げれば


R0013162


馬ものっそり顔を出す。


R0013178


もうすぐハロウィン?(らしい)。


R0013154


理想の世界はと聞かれれば。


R0013147


こんな秋の日をしあわせに感じる心。


R0013142


できれば自分をもう少しうまく運転できるようになること。

2009/10/14

MINK OIL

MINK OIL

「君は僕がこの芝生の上で社会を改革するつもりでいると思っているんじゃないだろうね」
サイムは相手の顔をまっすぐに見つめて、無邪気な笑顔になった。
「そんなことを考えてはいないけれど、もし君がほんとうに無政府主義を信じていたら、この芝生から始めるだろうと思うね」と彼はいった。

G.K.チェスタトン『木曜の男』

2009/10/12

小さな芸術

えー、本日は近代の芸術の歴史について一席。コホン。
(素人の浅ましさとはいえ、こんなに大それたテーマで文章を書いちゃって。
ええ、まぁ、ひとりごとですから)

1.西洋の芸術はもともと神の指定席であった。
2.やがて神は退場し、芸術に空席が出来た。
3.神の座席は大きかったので、人間はそこに入ってふんぞり返った(巨匠の時代)。
4.神を坐らせる必要がなくなった座席はどんどん小さくなってゆき、巨匠や文豪という称号はパロディー化した。

日本にはもともと神はいないので、芸術は神の入れ物ではない。
では日本において、芸術とはなんであったか。
それはおもちゃであり、芸であり、道であった。
それは自分にとってだけおもちゃとして存在していて、外の世界に覇を唱える必要はなく、みんながそれぞれ各自で「~流家元」として好きにやっていればよかった。

ところが明治の開国とともに、西洋からグローバリゼーションの大波が日本にも押し寄せてきた。
グローバリゼーションというのは要するに「あんたがたもワシらの流儀に従ってもらわんとあきまへん。
『わしらの』(力を込めて!)やり方でやらしてもらいます!いいですね。これが『世界』の常識なんですから」というわけです。

素直な日本人は、それが単に西洋というある民族集団が自分たちの流儀を押しつけてきただけなのに、その流儀に従って、日本の芸術を大きく変えざるをえなかった。
「ああ、西洋の芸術はなんと大きく、偉大なんだろう。それに比べて日本の芸術はあまりにも小さい!。ここはひとつ、西洋人の作品に学んで、わしらも大きな作品を作らねば!フゴーッ!(鼻息)」
それで日本人は文化の都花のパリへ勉強に行ったり、パリに強くあこがれたりしたわけです。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
(萩原朔太郎「純情小曲集」より『旅上』)

でもやがて西洋の芸術は、どうにもその、自らの大きなガワが気に入らないらしく、どんどんガワを破壊していった。
日本人が外人の巨乳をうらやましく思うのに、外人はむしろ大きなおっぱいをうとましく思って乳房縮小手術を受けるようなものか。
日本人もようやく世界が小さな芸術の方向に進んでいるということに気が付いて、
「そうか。もうあんまり西洋のビッグな芸術にコンプレックスを感じる必要はないんだ。じゃあ、また好きにやらせてもらいますね」という感じで、自分たちのやっていることに自信を持ち始めたというのが今の流れではないでしょうか。

偉大な芸術というのは、歴史の流れの中で一時的に出現した特異な現象である。
それは進化の過程で出現した巨大な恐竜のようなものであり、いまは小さな哺乳類の時代である。
哺乳類は恐竜から学ぶことも多く、尊敬することも大事だけれども、あこがれたりコンプレックスを感じたりする必要はない。
というのが今日の結論です。

2009/10/11

秋の気

R0013048

一日家にこもっていたので


R0013061

夕方外に出て空を見上げて思わず声が出ました。
「おお、空が高い!」


R0013064

公園にはいろんな色の落ち葉が落ちている。


R0013065




R0013071




R0013076




R0013081




R0013083

今日は大きな空を大きな写真でどうぞ。(^_^)

栗パイ

栗パイ

今日は一日家にいて


栗パイ

勉強したり、本を読んだり、家内の作ったパイを食べたり。


栗パイ

穏やかな秋の一日です。

2009/10/10

音楽の未来

18世紀初頭から18世紀後半の、絵画からも音楽からも文学からも「神」が撤退し始めて、神が去ったあとの巨大な空席に、さて何を入れるべきかをみんなが模索していた時代。

バッハはかろうじて去っていく「神」に追いついて、彼をつかまえることができた。
音楽というガワに神というコンテンツを入れると、その驚異的な上昇気流のおかげで音楽を至上の高みにまで持ち上げることが出来る。それがバッハの作品群だったのではないだろうか。

でもモーツァルトの時代は、もう神が去った後だった。
モーツァルトは中身が空っぽの人なので、自分の中に音楽を丸々入れることが出来た。
そんなモーツァルトだから、彼は必然的に「音楽」というガワに音楽そのものを注ぎ込むことが出来た。
モーツァルトという人は、音楽自身の持つ無限の自由によって「音楽に好きにさせるとどうなるか」を表現した人のような気がする。

ベートーベンに神はない。
さらに彼はモーツァルトのように空っぽの人間ではないので、自分の中に音楽を丸ごと入れることが出来ない。それは彼自身がモーツァルトと直接会って痛いほどわかっていたはずだ。
彼が自分の中に音楽を丸ごと入れることが出来ないのは、彼の中に「自分」があるからだ。(そしてそれこそが近代人の特徴なのだ。彼は音楽の世界に初めて登場した近代人だったのかもしれない)
その「自分という人間」を、音楽というガワに入れたらどうなるだろう。
僕はベートーベンという人は、「音楽」という「ガワ」に「丸のままの人間」というコンテンツを歴史上初めてぶち込んだ人だったんじゃないかと思う。
音楽というガワに人間を入れると、ガワの中に封じ込められた人間は、激しい情動の奔流でガワを引き裂こうとし、ガワを引きずり回す。音楽が、暴れ馬のように暴走する。
ベートーベンの音楽は、神から見放された人間が素っ裸で吹きすさぶ荒野をひとりぼっちで号泣しながら走り回っている姿を僕に連想させる。喜びも悲しみも絶望も希望も、もはや神のいない荒野にむき出しのまま轟き渡る。

じゃあ今の音楽はどうなんだろう。
神が抜けたあと、神の坐っていた席は大きかったので音楽というガワも大きかった。
だから神が抜けてすぐの時代の音楽や文学は、この大きななガワの中で巨大な成長を遂げ、数多くの素晴らしい交響曲や偉大な文学が数多く生まれ、トルストイやドストエフスキーやバルザックやヴィクトル・ユーゴーのような文豪が数多く輩出した。それはいわゆる「巨匠」の時代である。
しかしその後、もはや神のような巨大なコンテンツを入れる必要のなくなったガワは必然的に縮小する。
ガワはどんどん縮小の一途をたどり、今では手の平に乗る位小さくなってiPodに入るようになった。
ガワが小さくなるとコンテンツも縮小する。
それは例えば「昨日の雨」であり、「今日のあなたの一言」であり、「ロックが元気だった頃の思い出」である。
とても俳句的になっていくような気がする。

twitter