2010/08/17

全的に関与するということ

以前のブログで取り上げたDoctor's Ruleの一つに、
When you are listening to a patient, do not do anything else. Just listen.
(拙訳:患者の話を聴きながらほかのことをしてはならない。ただ聴きなさい)というのがありました。

昨日聴診器をあててもらった患者さんの喜びについてお話ししましたが
聴診器をあてるという行為が巧まずともJust listenという好ましい態度をもたらすことに気が付きました。

イヤーチップを耳に当てるとその途端から世界は無音になる。
そして聴診器が患者の身体に触れた時既に僕は患者の身体という森の中にいる。

人は聴診器を使いながらほかのことが出来ないという点がミソなのです。
その時我々は嫌も応もなく、全的に患者に関与せざるを得ない。

全的に関与するというのは、マックス・ピカート的に言えば「時間を与える」ということです。

愛とは立ち止まることだ。
ある一人の前に、しばし立ち止まることなく、時間を使うことなしに愛を交わすことはできない。
愛情のある人間は他の人々やもろもろの事物の前に立ち止まる.
そしてそれらの人々や事物に時間を与える。
それがとりもなおさず愛なのだ。
くりかえしていうが、時間と愛とは相い依って一体をなすのだ。
マックス ピカート「騒音とアトム化の世界」佐野利勝訳(1971)みすず書房

愛というとわかりにくくなるけれども、愛という言葉を全的関与と読み直すことが許されるなら
私の時間を相手のためだけに使うということが愛なのでしょう。

三年間も通って一度も聴診器をあててもらわなかった患者が、たった一度僕が聴診器をあてただけで満腔の笑顔を示したのは、おそらく僕が僕の時間を彼のためだけに使ったから。

そしておそらく全的に関与するというのは人との関わりの中だけで意味を持つのではない。
僕たちが行う全ての行為において、自分の全存在を丸のまま行為の中に放擲しきるという態度が
結局は僕らの救いなのだろう。

松尾泰伸さんのコンサートのお知らせ。

0920

9月20日に和歌山でソロコンサートが予定されているピアニストの松尾泰伸さん
そのサポートをしておられる方から、僕の写真をチラシに使わせて欲しいとご依頼をいただき、
恥ずかしながらご協力させていただきました。
9枚の内右下の小鳥の写真はflickrのgleybirdさん。それ以外の8枚は僕の写真です。

僕は寡聞にして知らなかったのですが、松尾泰伸さんは自然の持つ治癒力をピアノ演奏を通じて表現される
ヒーリング系のアーティストで、熊野古道や高野山などでもコンサートを開かれています。
こちらで試聴も可能です。
当日は月曜日ですが敬老の日なので、ご都合の付く方はぜひご参加下さい。(^_^)。

2010/08/16

不思議な道具

ずっと以前。僕が別の病院に勤めていた頃の話。
僕が外来で診察していると、少し離れた別の診察室から患者さんの怒声が聞こえてきました。
まあこういったことは年に数回はあるものです。
多くは待ち時間や医師の説明の仕方、検査の進め方に対する不満です。

ほどなく看護婦さんがこっそり僕に事態の収拾を依頼してきました。
僕は看護婦さんに頼んでその患者さんを僕の診察室に案内してもらい彼の訴えを聞き、同僚医師に替わって患者さんに謝罪しました。

患者さんはその医師の診察を拒否したので、僕が替わりに彼を診察することになりました。
いつもの通り僕は患者さんの訴えを聞き、既往歴を確認し、身体所見を取りました。
するとその患者さんは驚いた顔でこう言ったのです。
「先生、私はこの病院に3年間通っていますが、聴診器をあててもらったのは今日が初めてです」

僕はたいへん驚いて言葉を失い、二人の間に奇妙な時間が流れました。
やがて患者さんは輝くほどうれしい顔になりなごやかな雰囲気のまま診察を終えることが出来ました。

医師が初めて聴診器に接するのは医学部高学年でポリクリが始まる前後でしょうか。
階段教室の講義の休み時間に聴診器のカタログと購入希望用紙が回ってきたりしてああ、自分もいよいよ医者になるんだという高揚感がいやが上にも高まります。
カタログにはナース用の廉価なものから心臓専門医用の高価なものまで載っていますがどうせ買うなら高級なものをという学生と、あんなものは格好だけだから一番安いのでよいのだという訳知り顔の学生もいる中で、
僕は奮発して高価な聴診器を購入することにしました。

講義の休み時間に販売業者から手渡された聴診器を手にすると、まずお互いに胸の音を聞きっこするわけです。まるでお医者さんごっこですね。
昔ダウンタウンの「ごっつええ感じ」に「はーのやつ」というコントがありました。
警察官になりたての松ちゃんが初めて飲酒検知器を配布され、興奮して夜中に起き出して自分でビールを飲んで検知器に「はー」とやって、満足げに再び床につくというコントですが、まぁそんな感じです(笑)。

さて、そんな興奮が徐々に薄れてくるのは病院で働き始めてからでしょうか。
一所懸命に心音を勉強して意識を集中して聴診しても、心エコーに叶わない。
呼吸音もたった一枚の胸部X線に叶わない。
役に立つのは当直帯に来る喘息患者の喘鳴の確認くらいか。それも大抵聴診器を当てなくても聞こえたり。
聴診器に対する畏敬の念がみるみるしぼんでいくわけです。
そのうち医者の中には聴診器を持ち歩かなくなるひとも出てきて、血圧を測る時だけ看護婦さんに聴診器を借りたりするわけです。
僕も外来診察の時に一応聴診器を当てるのですが、心の中では「これはまるっきり儀式だな」と思っているわけです。

でもあるときふと僕は思ったのです。
道具というのは信頼に応えるものだ。
信頼されていない道具は何ももたらさないが、道具を信頼すると見えてくるものがある。
それからは少し前向きに聴診器を使い始めました。
すると今まで聞こえなかったいろんな音が聞こえてくる。
CTでしかわからないほどわずかな肺炎が聴診器を当てると聞こえる。
何より患者の身体の中から発する様々な音に意識を集中すると、患者の存在そのものが巨大な森のようになり、僕はその森の中に入っていくような気がする。
まだ十分に意識が患者に向かっていないときに聴診器によって僕は一気に患者の中に入っていくことが出来る。

不思議な道具。
僕らは知っている意味しか知り得ない。
知らなくても存在する意味がある。

2010/08/15

プラチナの顔料ブルー

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View On Black

モンブラン149BBを購入してから数種類のインクを試した。
Olympus E-P2を購入してから数種類のレンズを試したのと同じ意味合いかもしれない。
試したインクは、モンブランの黒、モンブランのロイヤルブルー、セーラーの青墨、Watermanのブルーブラック、そしてナガサワオリジナルの塩屋ブルー。
僕の印象ではモンブランの黒はわずかに茶色が入っている。
ロイヤルブルーは僕には紫が勝ちすぎている。
セーラーの青墨は質実でよいがもう少し色気が欲しい。
Watermanのブルーブラックは光による退色が早い。すぐに薄緑に変わってしまうので仕事に使えない。
塩屋ブルーは買った当初はそのしょっぱい色がどうかと思ったけど、149BBに入れてみたらとても爽やかなブルーで、その夏らしい色が一番気に入っている。
このインクはなくなったらまた買い足すだろう。ただタッチが滑りすぎる印象。
サラッとしているためにペン先と紙がダイレクトに接している感じ。
絶えずリアルなペンのタッチを意識してしまうので
いつまでたってもペンが手の延長にならない。
もう少し粘度が欲しい。

セーラーのキング・プロフィットの時と同じく149BBでも書き出しが遅れることが時々ある。
書き出しが遅れると機先を削がれる。
これはたぶん僕の筆圧が高いことが原因で、キングプロフィットも149BBも神戸のPen and messageさんで調整してもらってすらすら書けるようになった。
それでもまだごくたまに書き出しが遅れることがあって、その時はちょっとがっかりする。
先日ネットサーフィンでプラチナの顔料ブルーを高粘度と評している文章を見つけた。
インクの粘度が高ければ表面張力が高いので書き出しが遅れにくくなるのではないか。
昨日そのインクが届いたので今日さっそく試し書きしてみた。

よい。
インクの色も筆感もとてもよい印象。


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View On Black

2010/08/10

「撮りたい」と「撮れる」についての再録

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「撮りたい」というのは、対象に魅力を感じることで、
「撮れる」というのは能力を引き出す喜びのことだ。

「撮れる」は、どこまで能力を引き出せるかというのがテーマだから、
行き着く先は自然と、いやー、とうとうこんな所まで来てしまったよ、という境地になる。

それに対して、「撮りたい」というのは対象との深いまぐわいを通じておのれならざるものへの変容がもたらされ
望むと望まざるとに関わらずそれは他者の意識や無意識への通路となる。
「撮れる」のテーマが自分自身であるのに対し、「撮りたい」のテーマは他者なのだ。

どちらの方向に進むかで写真は二つに分かれる。
そして、それぞれの行き着く果てには各々の到達点がある。

撮れる山という山の頂きには「どうだ参ったか写真」がある。
撮りたい谷という谷の底には「他者と通底する写真」がある。

写真を撮り始めて間がない頃は、撮れることがうれしくて、撮る対象に興味があるけれども
なかなか自分の思う写真が撮れないことに気が付いて、それを何とかしたいと思うのはだいたい男性なのだが、
つまりそのうちいろいろ工夫をし始め、道具にこだわり始める。
目的が達成出来るとまた新たな目標が生まれる。
そしてとうとう人は「どうだ参ったか」山に登ってしまうのだ。

写真の国には、まだ写真との関わり方の決まっていない多くの人たちがいて、
「どうだ参ったか」山の参道を粛々と登っている人たちがいて、
撮りたい谷の参道を降りていく人たちがいる。
道具にこだわるとついつい撮りたい谷から離れてしまう。
心得ておくべきことかもしれない。

(あ、誤解なさらないで下さい。これは単に今僕自身が抱えている問題について考察したものです)

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