2009/08/15
お疲れですか?
今日仕事をしながら、ふと、「物語」をやめたら「疲れ」は発生しないんじゃないか。「疲れ」は「物語」なんじゃないかと思った。
いや、もちろん肉体的な疲れはあるけど、うちの犬を見ていると、はぁはぁ息は切れるし、足取りも重くなるけど、もし彼に「疲れてますか?」と聞いたら、「息がしんどいです」「身体がだるいです」「足が重いです」とは答えるけど、「疲れてます」とは答えないような気がする。
僕が言いたいのは、「疲れ」というのは、いくばくかの肉体的な疲弊感に自己悲劇的、自己憐憫的な感情が加わった状態なのではないかということだ。
悲劇や憐憫というのは、自分の置かれた状況を一つのドラマと捕らえているから発生してくる感情なので、「疲れ」を自覚するためには肉体的な疲れの発生に先立って自己憐憫的な感情があらかじめ自分の中に醸成されていなければならない。
だから肉体的な疲れが発生する前に物語の発生を許さなければ「疲れ」は生まれないんじゃないか。
そんなことが出来るのか!?
むつかしいことを言っているようだけど、要するに目の前の仕事と一体になって、ほかにあれこれ考えないということだと思う。
それをやってみた。
出来そうな気がする。
でも落とし穴が一つあって、「つい時計を見てしまうとそのとたん物語が起動する」
どうも「時計」は「物語」と関連がありそうだ。
そういえば日本の昔話は「むかしむかしあるところに」で始まるし、欧米の物語も「Once upon a time」で始まる。
物語というのは一連の因果の連鎖だけども、「時間」というのは因果の座標軸なのかもしれない。
こんな事を考えながら仕事をしているから疲れるのかな(笑)。
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疲れが物語って 同感です
返信削除近くに肝臓がんだけどぜんぜんめげずにがめつく日銭を稼いで温泉に行って楽しんでいる人がいます どうも物語が希薄な人だと思うんです
生きてんだから稼ぐの当たり前っしょ てな感じでとても楽そうです
とーし
>とーしさん。
返信削除物語が希薄!
そうか、そういう手があったか。
でもひょっとするとその人はむしろ物語の城壁を頑丈にして癌が入ってこないようにしているのかもしれないですね。
yamでやんす。
返信削除疲れは確かに、自己憐憫の関与を否定する事はできないとは思いますが……。
実際、何度議論を繰り返してもまったく進展しない会議なんかに出ていると
もともと言語が違うんじゃないか?と思うくらい疲れてしまったりする事も…。
まっ、時に人は人生を物語や旅に例えたりしますけども。
物語や旅に例えられない人生ってーのは、なーんか味気なかないですかい?
前向きな行き当たりばったり人生を送るyamは
疲れる事を避けない事が、なにやら「繋がり」というものをもたらす気がしているっす。
そんでもって、さんざん物語っちゃった後で
物語が希薄になるって言うよりもシンプルになっていくんじゃないかな?
うまく伝えられないけど
以前shinさんが「わびでゴー!」って言ってたみたいな感じかな。
とーしさんのお知り合いも、日銭ってとこがイイですよね。
日銭ってとこが「わびでゴー!」って感じ。ブラボーです。
>yamさんご指摘ありがとうございます。
返信削除果敢に物語に入っていくことで、ビビッドな(役割に血が通った)人間関係を築けるのかもしれませんね。
僕は目をつむって物語に飛び込んでいくのが苦手なので耳が痛いです(とほほ)。