なぜか自分でもわからないが、最近無性に怪談が読みたくなって、ラフカディオ・ハーンの「怪談」に続いてちくま文庫の「文藝怪談実話」というのを買って読んでいる。
身体が明らかに何かを欲している状態から始まる読書というのはあまり経験がないので、たとえそれが怪談であってもやはりうれしいものだ。
もともと僕自身は悲しくもほとんど霊的なものを信じない人間で、死ねばエントロピーの低い状態から高い状態に移行してバラバラの分子に分解するだけだと思っている。生命というのはある情報の入れ物のようなもので、この世の始まりからこの世の終わりまでをじっとして過ごす物質もあれば、時間の中をある特定のパターンで転がっていく物質もある。生物という存在様式は、特定の転がり方のパターンを維持する情報を入れた入れ物の示す時間の過ごし方なのだろう。
幼い頃はそれが無性に怖かった。つまり全く何もなくなってしまうということが。
永遠に無の状態が続いていく。それは想像するだに耐えられないことだ。せめて幽霊にでも成れるものなら、幽霊になってでも意識を保ちたいと思ったものだ。
だが最近車を運転していてふと思ったのは、僕等はこの世に生まれる前は単なる浮遊する分子だったし、死ねば再び浮遊する分子になる。
みんな死ぬことを恐れるが誰も生まれる前の状態を怖がらない。
「あー怖かった!」「何が?」「生まれる前。」
そんな会話は聞いたことがない。
生まれる前のことを怖く思っていないのだから、死んだあとのことも怖がる必要はないのだろう。
だがこの景色は何もなくてすがすがしいがあまりに殺風景だ。
幽霊は、いた方が楽しい。
このちくま文庫の「文藝怪談実話」は明治・大正・昭和の作家や著名人が経験した不思議な実話を集めたものだ。
この本を読むと、当時の人たちは本当にたくさんお化けを見ていたんだなと感心する。お話はあくまで怪談だが、その時代の息吹や生活の細部も描かれているのでおもしろい。
まだ半分くらいしか読んでいないが、中でも感心したのがブルースの女王、淡谷のり子の体験談だ。文章がうまい。この人はこんなきちんとした文章を書く人だったのだ。この人に限らず昔の人の文章は背筋が伸びていて気品がある。
彼女は多くの不思議な体験をしているがこの本にはそのうちの4つの体験が載っている。いずれの話も非常に興味深い。ここには書かないがいずれも霊の存在を前提にしなければ納得できないものばかりで楽しくなってくる。やはり霊というのは存在するのだろうか。
だが待てよ、とやはり僕は思う。嗅覚の優れた犬はガンの人を嗅ぎ分けるというが僕達にその違いはわからない。それと同様に僕達は多くの信号を周囲に発しながら生きているが全てが意識に昇っているわけではないし、微妙な信号をキャッチできる人は限られている。
僕達はひょっとしたら時空を超えて届く折り畳まれた手紙のようなものを発信しながら生きているのかもしれない。僕達が死んで完全に消滅してもそれは宙を舞いながらその限りなく小さく折り畳まれてはいるがたくさんのお話を乗せた手紙を開いて読んでくれる人を待っているのかもしれない。