2010/03/14

赤・黄・緑

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今朝の散歩では昨日気付いた方法で撮ってみよう。
まずはボケ。


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いい感じ。
少しずつ角度を変えて2枚目。


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3枚目。


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椿の葉っぱの上に黄色い粉が。


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花粉です。


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赤い花弁に黄色い花粉。背景に緑の葉っぱ。


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夢中で撮ってしまいました。


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さぁ、帰って朝ご飯を食べよう。

2010/03/13

とろけるマクロ

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今日たまたまマクロスイターにCM-3500の×24のレンズを付けたらサイズがぴったりでスクリューも出来る!
×12と×6はスクリュー出来ないけどはめることは出来る。
うー。ふるえるほどめきめき嬉しさがわき起こってきた。
おお、マクロスイターで超マクロが撮れる。


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ああ、このクリームシチューのようなとろけるマクロ!


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さらにHolgaのFish-eyeマクロレンズも装着して。いや手持ちだけど。
ああ、夢のような画像。
ほへ~~(ため息)。
いや一人で興奮してすみません。
あ、庭のサクランボが咲いてたので。
説明の順序が逆だー。

僕はレンズ?

僕たちは何でも写真に撮れる。
なぜそれを撮ってはいけないのだろう。

いや全然構わない。
ただ第三者にとって写真は違う時空間への窓でありドラえもんのどこでもドアなので
写真に写っているのが日常の連続ならあえて写真という枠を通して見るまでもない。

それはかつて見たことがないものであったり、
そんな思いで見たことがなかった日常であったり、
そんな思いで見てみたい日常だったり。

今見ている日常を、違うふうに見てみたい。
マクロとか広角とか望遠とか魚眼とかいった様々なレンズは
つまり世界を変換する道具なんだな。

僕たち自身がそれぞれ世界を変換するレンズだったら。

「キミを通すと世界が違って見える。」
「あなたを通してみる世界はタイクツ。」
なんて言われちゃったりして。




2010/03/12

写真を撮って元気になろう。

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そうはしてられないと思いE-P2にKern Macro-Switar 26mm f1.1をカチャッと装着して
夕方のチャーリーの散歩に出発。


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春先になるとさざんかは爛熟した美しさを見せてくれるなぁ。
さざんかは春がいいのかも。


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おお、ぼけがいっぱい咲いている!やったー。


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いやー美しい。
花の形はウメに似ているけど、僕はぼけの方が好き。


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これはさんしゅゆ。


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写真を撮ると元気になるなぁ。
マクロスイターの写りも上々。(^_^)。

とっつぁん

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心身の調子が低下するにつれ


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写真のモチベーションも順調に低下。


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そんな時期なのか。


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「はやく散歩に連れて行くなり」


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「とっつぁん」

2010/03/09

写真は窓

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僕たちは何でも写真に撮れる。
目の前のアスファルトでも曇った空でも部屋の絨毯でも。
なぜそれを撮ってはいけないのかと僕はいつも自問する。
いや撮っても全然構わない。
ただ写真というのが我々の中で記号的な意味合いを持っているとすれば、
望むのは同じ空間、同じムードではなく違う時、違う場所、違う空気、違う気分。
写真というのは結局のところ違う時空間へのいざないなのだろう。

ありふれた写真を捨てるのにどうしてそんなに躊躇するのか、ほかの人には理解できない。
ありふれた景色を写真に撮った時、その写真の価値をみずからに担保しているのは
「私が撮った」という点だけなので、
私にとっては意味があるけれども、ほかの人にとっては意味がない。

でも、写真は本来窓であって、窓というのは通り道としてだけ意味があり、存在そのものは空であり、
写真そのものにモノとしての存在的な意味があるわけではないという視点に立てば、
つまりその窓を通して見える景色の方に価値を見いだすことが出来れば、
躊躇せずに自分の指紋を消すことが出来る。

ここを通って、異なる時、異なる場所、異なる空気の異なる気分へ。

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