2018/08/30
晩夏
ニコンからフルサイズミラーレスのZ7とZ6が発表された。僕としてはGFXみたいなアングルEVFが付いてなかったことが一番のガッカリポイントだけど、やはり新しいカメラはワクワクする。それとともにまたライカ熱が小さく再燃してきてウズウズしている。でも退職して収入が減ったことで妻からは出費を抑えるように厳しく言われていて、新しいカメラを買うことなどとても言い出せる雰囲気ではない。実際X100Fを全然使っていないのに新しいカメラを云々できる筋合いではない。ましてやライカはレンジファインダー。それならX100Fでどんな写真が今の自分に撮れるかやってみなければいけないのだ。
D800Eをメインで使っていた頃はRAWで撮ってビシバシレタッチしていたけど今日のX100Fではjpeg fineで、velviaとかastiaとかclassic chromeで撮った。撮れた写真のイメージはさすがFuji。いじらなくてもきれいだったので撮って出しをFlickrにアップしようかと思ったけど、SilkyPixに放り込んだらやっぱり癖が出て納得できるまでいじってしまった。それでもいつもよりレタッチはかなり少なめ。
どうして触ってしまうかというと僕の場合撮って出しのままではまだ自分の写真になっていない気がする。自分の目で見て、あっと思ってシャッターを切る。この「あっ」には実は目に飛び込んできた映像という刺激が脳の中のどこかの領域を励起させて「あっ」を発生させているわけで、「あっ」は映像という刺激ではなくてそれによって励起された脳の中の電気現象だ。だから撮れた写真を見て「あっ」が出なかったら「あっ」が出るように映像を加工しなくてはならない。「あっ」は自分のためのもの。
2018/08/27
LAMY DIALOG 3 再び

万年筆好きの人なら経験していると思うけど、買ってはみたものの何となく使いあぐねている万年筆が何本かあるものだ。僕にとってその1本がLamy Dialog3だ。
もとはといえば仕事用としていちいちキャップを付け外ししなくていい手軽さでパイロットキャップレスを購入したものの、数日使わないでいるとペン先が乾燥してしまうことのもどかしさに耐えきれず購入したのがこのペンだった。
洗練されたデザインとメカニカルなシャッター機構が魅力だけど何となく自分の手になじまず、しかもこのペンさえもペン先乾燥問題と無縁ではなかった。そうこうしているうちにパイロットキャップレスの乾燥問題が解決してしまい、さらにはDialog3をうっかり落として首軸先端の開口部が少し歪んでしまったこともあってこのペンは長らくお蔵入り状態だった。
最近またよく万年筆を使うようになったこともあって、なんとか復活させたいという思いで首軸交換の修理に出したこのペンが4ヶ月ぶりに僕の元に帰ってきた。修理の際に乾燥問題を伝えてあったので大いに期待しているところだがまだ使い始めなのでわからない。
さて、ではなぜ僕がこのペンを使いあぐねていたかだが、再び使い始めてようやくわかった気がする。
まずこのペンは重い。精緻なメカニカルシャッター機構を内蔵しているせいか、モンブランの149より13gも重い。それはいい。いいんだ。だけど重いペンは持ちやすくあるために太くあってほしい。このペンの首軸の把持部は149よりもやや太めだが、重量比を考えるともっと太いほうが安定すると思う。
それから人差し指のMP関節部にペンの胴軸が乗るんだけど、胴軸の素材がサラサラの金属なのと本体が重いので、ここで滑っちゃうんだな。パラジウムじゃなくてピアノブラックやピアノホワイトならましかもしれないけど。
ま、そういうわけで、使いあぐねていた原因の一端が見えたところでどうするかだけどDialog3を部分的に太巻き寿司にすることにした。使いさしの粘着力のなくなったベルクロテープをモビロンバンドで写真のようにぐるぐる巻きにした。
このペンをデザインしたフランコ・クリヴィオ氏が見たら憮然とするだろうけど、そして見た目は本当に不格好だけど明らかに持ちでが改善し愛着まで湧いてしまった。許せフランコ。

インクはYARD・O・LEDのブルーブラック。
追記:Lamy Dialog3の乾燥問題については日本では取り上げられているサイトを見かけませんが海外ではNib Dry Out Issueとしてあがっています。「数時間で乾燥して書けなくなってしまう」という人もいれば何の問題もないという人、インクを変えたら治ったという人や、Lamyに新品に交換してもらったという人まで様々です。シャッター機構についてはパイロットキャップレスのほうが評価が高いようですね。確かにキャップレスのほうが機構が簡単な分だけトラブルが少ないのかもしれません。
更に追記:上記の僕の改造についてはモビロンバンドでぐるぐる巻きにしたせいでクリップが常に押し下げられた状態になっており、これが乾燥問題に悪影響を及ぼす可能性があります。今のところ毎日使って何の問題もないのですが、一週間程度放置してどうかなどについては機会があれば報告したいと思います。
更に更に追記:5日ぶり(中4日)の登板で書き出し問題なしでした。
更に更に更に半年後の追記:うーん、やっぱり乾燥します。翌日には書き出しがかすれてしまう。要するに開口部を塞いでおけばいいのだと考えて、使い終わったら練り消しゴムをアズキ大に丸めたもので開口部を塞ぐようにしました┐(´д`)┌。
更に追記(2019/04/02):練り消しゴムは我ながらいい考えだと思ったけどゴムが溶けてきてシャッターの内側にへばりついてきた。それで無水エタノールで湿した綿棒で半閉状態のシャッター周りを丹念に掃除したら5日ほど放置しても書き出しスムーズ。思うにDialog3のペン先乾燥問題はひょっとすると微細なゴミがシャッターの密閉性を邪魔していたのかも。そしてこの微細なゴミを取ることが乾燥問題解決のカギなのかもしれない。まぁこれもしばらくは様子見だけど。
更に追記(2019/10/2)
上記の無水エタノールによる掃除後は極めて好調。一週間以上放置しても書き出しスムーズ。
Lamy Dialog3のピアノホワイトを買ってみた。想像通りピアノホワイトは指が滑らないので上記のような太巻き寿司にしなくてもそのまま普通に使える。皆さんにはパラジウムではなくピアノブラックやピアノホワイトを強くお勧めします。(と書いたものの最近はパラジウムの太巻きをはずしてそのまま使っている。いい加減なブログ。2019/11/4)
さらに追記(2021/12/23)
ペン先乾燥問題の最終稿を書きました(リンク)。
2018/07/30
summer
いよいよ来月ニコンからフルサイズのミラーレスが発表されるらしい。ティザー画像のファインダー部をみるとGFXのデタッチャブルファインダーみたいなシルエットなのでアングル機構もついているかもしない。ソニーがα7を発表してからもう5年も経つんだから、単なる後追いじゃなくて写欲を掻き立てるような魅力的なカメラになっているといいな。
先日すごく久しぶりにハッセルブラッド熱が再燃した。
一時は寝ても覚めてもハッセルのことを考えていて、結局買うことはなかったけど今でもたまに片思いが再燃することがある。
それで中古のハッセルブラッドの価格を調べてみたら相変わらず高くてがっかり。でもインスタでハッセルで撮られた写真を見ながら思ったのは、「どんなに憧れてもそれは私の現実ではない。そのための機材を手に入れてもそこに手が届くわけではない。それは私の現実ではない」ということ。
じゃあニコンのフルサイズミラーレスを買ったら「私の現実」が撮れるかというと、それも自信がない。
夜お風呂で赤瀬川原平さんのゼロ通信を読んでいたら次のような文章があった。
「現実とは、整える暇のない現在である」
原平さんにしては珍しく1行独立の、言い切りのセンテンス。そのとき自分のためにとりあえず一つクサビを打ち込んでおかなくてはと思われたんだろう。
じゃあ整える暇のある現在とはなんだろうと考えると、それは自分のお話として正統と認められた現在だろう。僕が撮ってきた写真の多くはどちらかといえば自分のお話として正統と認められた現在のような気がする。ただ写真というのは意図するもの以外のものが撮れるので、そこに整える暇のない現実が入ってくるのが面白くて続けてきたんだけど、撮る能力が向上すると整える暇のない現実の入ってくる比率がだんだん減ってくる。
すると自分しか撮れなくなる。というのはつまり撮れたものに自分しか写っていないことになる。つまらない。それで写欲がなくなって撮らなくなったのだと思う。それで今僕がどちらかというと写真を撮ってアップしたりするアウトプットよりもインプット、ファットバイクに乗って峠へ行ったり、ポルトガル語を勉強したり、ギターを練習したりしているのは、整える暇のない現実を自分の中に取り込みたい、自分の中の未開拓領域を探検したいと思っているからだ。つまり「整える暇のない現在」を自分の中に見つけようとしているからだと思う。
写真を撮るというのは僕にとって「見たものに驚き」「それを外界に発信する」という行為であり、何かに驚くというのは自分の中の未開発領域を刺激されることなのだが、今の自分は自分に飽きているのでもう何を見ても驚かない。だから写欲がないわけだ。それではいかんというので(自分に飽きると生きていく意欲がわかないので)、直接自分の中の未開発領域を開発している。
新しいカメラが欲しいという気持ちや、写真を撮る楽しさは言を俟たないが、何を撮るかとなると途端に途方に暮れてしまうのはそういう訳なんだと、書きながら考える。チコちゃん風に言うと、「写真が撮れなくなったのは」ドドン!「自分に飽きたから~」。
2018/06/30
陽のルートで生きたい
僕はいろいろと不満や満たされない思いや着心地のわるい服を着ているような、自分の生き方に確信が持てない気持ちで生きているが、いやそうではなくて僕はむしろ不満や気に入らないことを「探しながら」生きているのではないか。そして僕はそういった気に入らないことを見つけてそれを解決するか、あるいは何で紛らわすかを探したり見つけたりすることに生きる歓びを感じているのではないか。
そう考えたのはつまり仕事を退職して不愉快なことが解消されたにも関わらず、今度は自分の中に不満を見つけて鬱々として楽しまない日々を送っているのは、どっちにしろ何らかの不愉快のタネを探しているからではないかと思ったからだ。
つまり僕は自分で不愉快の種を探して当然自分で不愉快になりそれを紛らわすための妄想探しにこそ喜びを見出していると。
不愉快に対するセンサーの感度が高く、センサーが不愉快を感知したら不満、怒り、攻撃、緊張などの情動が励起される、この反復反射でセンサーから情動へのルートが太くなっており、それを解消するための愉快的解消行動(妄想や購買欲)を生命エネルギーにしているのが僕なのではないか。
そうではなくて一義的に面白いことや喜ばしいことに対するセンサーが鋭敏で、それがうれしさや楽しさといった情動と直結していることが好ましい生き方なのではないか。
そして僕のように「負のセンサーから負の情動を発現させそれを解消することでようやく陽の情動を獲得する人」というのは、ひょっとするとこれまでの生涯で嫌というほど「苦労→ご褒美」パターンを繰り返し自らに課してきた結果生み出されたのではないか?
世の中には(非常に稀だが)あらゆる刺激を陽の情動に変換できる能力を持った人がいる。
そのことに気づいたのは昨日YouTubeで所さんのCM集を取り上げたものの中で劇団ひとりの揚げ足取り発言に対し所さんが間髪を入れず陽気に屈託なく返事をしているのを見て少し感動したからだ。僕だったらすぐに不機嫌になっていただろう。ひょっとすると所さんは負のセンサーからユーモアへのルートが太いのかもしれない。
夜録画していた所さんの世田谷ベースを観る。
「面倒なことが幸せなんだよ」
2018/06/10
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